石黒 和弘(いしぐろ かずひろ、1941年7月1日 - 2015年10月[1])は、愛知県名古屋市熱田区[2]出身のプロ野球選手内野手外野手)。

石黒 和弘
基本情報
国籍日本の旗 日本
出身地愛知県名古屋市熱田区
生年月日 (1941-07-01) 1941年7月1日
没年月日2015年10月??
身長
体重
172 cm
67 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手二塁手右翼手
プロ入り1964年
初出場1964年
最終出場1971年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

経歴 編集

中京商業高校では2年生でレギュラー遊撃手となり、甲子園に4回出場[2]1958年春の選抜では決勝に進出するが、済々黌高に敗退し準優勝に終わる[3]。同年夏の選手権でも2回戦で同じ済々黌高に敗れる[4]。1年上のチームメートにエースの伊藤竜彦外野手早瀬方禧がいた。翌1959年春の選抜では、後にプロで同僚となる平沼一夫(中京大西濃運輸東京オリオンズ)、伊東栄二両投手の好投もあり、決勝で高木守道がいた県岐阜商を破って優勝[3]夏の選手権にも出場し春夏連覇を狙ったが、1回戦で高鍋高に完封負けを喫する[4]。8月末からは全日本高校選抜の一員としてアメリカ西海岸・ハワイ遠征に参加した。

卒業後は慶應義塾大学へ進学し、東京六大学野球リーグでは1962年秋季リーグ、1963年春季リーグに優勝。1年下のエース渡辺泰輔を擁し、1963年全日本大学野球選手権大会でも決勝で駒大を破り優勝している。クリーンナップとして活躍し、ベストナイン(遊撃手)を1962年秋季リーグから3季連続で獲得した。リーグ通算66試合に出場し222打数64安打、3本塁打、20打点、打率.288。大学同期には一塁手西岡浩史外野手北川公一がいる。

1964年東京オリオンズへ入団[2]。開幕から遊撃手、一番打者の定位置を獲得、同年は117試合に出場し打率.256(23位)、13本塁打、37打点を記録する。中でも29二塁打は佐々木信也のパ・リーグ新人記録を更新し、この年のパシフィック・リーグ新人王の最有力候補として名前が挙がったが、結局は選出されなかった(該当者なし)。これには、打率の低さや存在の地味さ(当時のオリオンズは人気も他のチームに比べて低かった)が関係しているとみられる。

1965年山崎裕之が入団、開幕から二塁手に回る。しかし打撃の低迷もあって、八田正と併用され出場機会が半減する。1967年には復活し、二塁手、一番打者として87試合に先発出場。翌1968年前田益穂が二塁手に回ったため、右翼手として起用される。その後は段々と出場機会が減り、1971年を最後に現役を引退した[2]。その後は経営コンサルタントとなった。

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1964東京
ロッテ
11749744564114292131863774414502534.256.327.418.745
1965862111792140617691922122603366.223.332.385.717
1966912652362044513601933512221473.186.259.254.513
19671103763513684180912924145601910437.239.278.368.646
1968791781552341509732531112110280.265.352.471.823
196929544849301153002030093.188.235.313.548
19711718140200021000040070.143.333.143.476
通算:7年529159914281683346644253412829151951404622323.234.305.374.679
  • 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更

背番号 編集

  • 23 (1964年 - 1971年)

脚注 編集

  1. ^ “平成28年度ご逝去倶楽部員一覧”. (2016年4月8日). http://www.mita-club.com/news/2016/04/13/ 2022年8月4日閲覧。 
  2. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、41ページ
  3. ^ a b 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  4. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年

関連項目 編集

外部リンク 編集