ロジャース・ホーンスビー

アメリカ合衆国の野球選手 (1896-1963)

ロジャース・ホーンスビー・シニア(Rogers Hornsby Sr.1896年4月27日 - 1963年1月5日)は、アメリカMLB野球選手、及び監督。主なポジションは内野手テキサス州ウィンタース生まれ。右投げ右打ち。打席での堂々とした振るまいやロジャースという名前の響きから、"the Rajah"(ラージャインドの王様)という愛称で呼ばれた。テッド・ウィリアムズとともに、MLBで打撃三冠王を2度獲得した強打者で[1]史上最高の二塁手と称される[2][3][4]

ロジャース・ホーンスビー
Rogers Hornsby
基本情報
国籍アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地テキサス州ウィンタース
生年月日1896年4月27日
没年月日 (1963-01-05) 1963年1月5日(66歳没)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
175 lb =約79.4 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション内野手(二塁手)
初出場1915年9月10日
最終出場1937年7月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • セントルイス・カージナルス (1925 - 1926)
  • ニューヨーク・ジャイアンツ (1927)
  • ボストン・ブレーブス (1928)
  • シカゴ・カブス (1929 - 1932)
  • セントルイス・ブラウンズ (1933 - 1937、1952)
  • シンシナティ・レッズ (1952 - 1953)
殿堂表彰者
選出年1942年
得票率78.11%
選出方法BBWAA[:en]選出

経歴 編集

デビュー - 1910年代 編集

1915年のシーズン終盤、19歳の時にマイナーのウェスタン・アソシエーションリーグに参加していたデニソンという球団から、セントルイス・カージナルスに入団、早速メジャーの試合にデビューし18試合に出場する。カージナルスには遊撃手として入団したが内野はどこでもこなせたようで、2年目の1916年には一塁から三塁まで内野の4つのポジション全てをこなし、1917年には遊撃手として当時のメジャー記録に並ぶ1試合14補殺という守備記録も打ち立てている。ただホーンスビーは、高く上がったポップフライを捕るのが苦手、という弱点があった。背走したり真上を向いたりした際に、彼の平衡感覚に異常が生じるためだった。

その後2度の三冠王になるホーンスビーの打撃の凄さは、入団2年目に早くも開花しはじめていた。1916年の打率は.313、15本もの三塁打を放ち、長打率は既に.444になっていた。翌1917年に打率は.327と更に上昇し、三塁打17本はリーグ最多となり、リーグトップの長打率.484の成績を残すまでになっていた。ホーンスビーは打席に入ると、バッターボックスの一番後ろのベースから遠い角に立って構え、そこから大股で内側へ大きく踏み込みながら、完璧なレベルスイングで強烈なラインドライブを右に左に打ち分けていた。一塁を廻るスピードも速かったため、多くの打球が単打で終わらず二塁打や三塁打になった。加えてホーンスビーは生真面目で冷静な性格だった。退場処分は1918年に2回があるだけで、それ以後は審判の判定に文句をつけることも殆どしなくなっていた。徐々に選球眼もよくなっていったようで、他チームの投手から恐れられていた1920年代前半には、大きく踏み込む打撃スタイルのために最も苦手にしていた「内角高め」の投球に対し、ホーンスビーがのけぞる姿勢を見せると、審判がボールとコールするようになってしまっていたという。

1920年 - 1926年 編集

1918年と1919年の打撃成績は一時落ち込むが、1920年にMLBはライブボール時代に突入。使われるボールの規格が変わり、よりボールが飛ぶようになったことで、ホーンスビーの打撃は投手にとっての脅威となった。同年ホーンスビーは二塁手に定着し、後にその守りは鉄壁、神業と称されるようになる。打っては218安打と打率.370、94打点を記録、リーグ首位打者と打点王の二冠を初めて獲得する。翌1921年は154試合に出場し、安打数、得点、二塁打、三塁打、打点、打率、出塁率、長打率でいずれもリーグトップとなった。そして1922年、打率はついに自身初の4割、打点は150打点に届き、それまでの首位打者と打点王に加えてリーグ最多の42本塁打を放ったホーンスビーは、自身初の打撃三冠だけでなく主要な打撃部門のリーグ1位をほぼ独占する成績を収めた。

1923年こそ出場試合数が少なく首位打者となっただけだったが、1924年にはナショナルリーグ記録となる打率.424をたたき出す。更に1925年にはタイ・カッブ以来となるメジャータイ記録の2年連続となる打率4割超えを達成。3度目の打率4割もタイ記録である。さらに、143打点と39本の本塁打でメジャーリーグ史上初の2度目の打撃三冠王を獲得する。しかも、この2度目の三冠王は、自身がブランチ・リッキーの後釜としてカージナルスの選手兼任監督をしながら成し遂げ、監督兼任での三冠王獲得は投手も含め唯一の記録となっている。同年ホーンスビーはナショナルリーグの最優秀選手にも選ばれた。

1926年、ホーンスビーは監督としての成功を得る。自身の打撃成績はそれまでの6年間に比べると見劣りしたものの、カージナルスを初めてのナショナルリーグ制覇に導き、ワールドシリーズにも勝利した。それまでの活躍もありすっかりカージナルスの英雄となっていたホーンスビーだったが、この年のオフに待っていたのはジャイアンツとのトレードだった。

1927年以後、引退まで 編集

1926年オフ、ホーンスビーはカージナルスに年5万ドルの3年契約を求めたが、当時のオーナーだったサム・ブレッドンとの折り合いが付かず、結局この年の12月にニューヨーク・ジャイアンツのフランキー・フリッシュジミー・リングとの交換トレードが成立、ホーンスビーはニューヨークへ移る。ジャイアンツに1年所属し打率.361、125打点の成績を残すほか、当時監督だったジョン・マグローがシーズン中に療養のためチームを離れる間監督を代行した。翌1928年にはボストン・ブレーブスへ移る。ここでも自身7度目となる首位打者のタイトルを獲得したものの、同年オフにシカゴ・カブスとの1対5プラス20万ドルという破格のトレードが成立、ホーンスビーはシカゴへ移ることになった。

カブスへ移ってもホーンスビーの打撃は衰えをみせず、この年も打率.380、149打点、39本塁打を挙げ、二度目のナショナルリーグ最優秀選手に選ばれる。1930年に足の怪我で満足にプレーできなかったことが転機になり、同年ホーンスビーは前任のジョー・マッカーシーの後をついでカブスの監督を1932年まで勤めることになる。しかしホーンスビーは1932年8月2日のゲームを最後に監督を解任され、カブスを放出されてしまう(同年カブスはリーグ優勝を飾る)。翌年セントルイスへ戻ったホーンスビーは、カージナルスで一時プレーした後、セントルイス・ブラウンズの監督に就任、1937年までブラウンズの指揮をとる。しかし当時のブラウンズは、既にホーンスビーの手に負えない弱小球団になっており、チームは毎年最下位争いを繰り返すだけだった。選手としてのホーンスビーの最後の出場は1937年7月20日の試合で、同年シーズン中にブラウンズを離れた。このころ、ミネアポリスで腕を磨いていたテッド・ウィリアムズと出会っている。彼は荒っぽく人付き合いの悪い人物と評判だったが、ウィリアムズによれば、非常に親切にしてくれたという。春季トレーニングの後よく二人きりで練習をしたと振り返っている。[5]

また、引退とともにホーンスビーの長き活躍を記念して、古巣カージナルスは『SL』のロゴでホーンスビーを顕彰した。ホーンスビーは晩年こそ背番号をつけたが、意気盛んだった頃のシーズンは背番号導入前だったため、その当時のチームロゴを背番号代わりとした。ホーンスビーの顕彰は永久欠番第1号である、ニューヨーク・ヤンキースルー・ゲーリッグ(1939年指定)よりも2年、ナショナルリーグの永久欠番第1号であるニューヨーク・ジャイアンツのカール・ハッベル(1944年指定)よりも7年早い。なお、現在は永久欠番扱いとなっているが、正式に指定されたのは後述の本人が死去した1963年のことである。

引退後 編集

ホーンスビーのカージナルス在籍時のチームロゴ『SL』。
セントルイス・カージナルスの永久欠番扱いとして1963年指定。

引退後は数年間選手兼任コーチとしてマイナーリーグでプレイ、指導を行っており、その間1942年アメリカ野球殿堂入り選手に選出される。

1950年よりマイナーチームの専任監督として現場に立つが、1952年にブラウンズのビル・ベックに呼び戻される形で17年ぶりにセントルイス・ブラウンズの監督となりメジャーリーグの現場に復帰、51試合指揮をとったあと、同年中にシンシナティ・レッズの監督に就任、翌1953年まで率いた。

監督退任後はコーチとしてホーンスビーは現場に立った。1958年から2年間コーチとしてシカゴ・カブスに在籍、1962年には新球団ニューヨーク・メッツのコーチとして招聘され、若い選手への指導を行った。現役を引退した後も、ホーンスビーはタバコや酒はおろかコーヒーさえ口にせず、「目が悪くなる」という理由から映画も見なかったという。

1963年1月5日、ホーンスビーはシカゴの病院で白内障手術の最中に心臓発作を起こして急逝する。66歳没。

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1915STL186157514200164022--2--06--.246.271.281.552
191613955049563155171562206517--11--40--463--.313.369.444.814
191714558852386171241782536617--17--45--434--.327.385.484.868
19181154664165111719115173608--7--40--343--.281.349.416.764
19191385775126816315982207117--10--48--741--.318.384.430.814
192014966058996218442093299412158--60--350--.370.431.559.990
1921154674592131235441821378126131315--60--748--.397.458.6391.097
1922154704623141250461442450152171215--65--150--.401.459.7221.181
19231074874248916332101726683375--55--329--.384.459.6271.086
19241436425361212274314253739451213--89--232--.424.507.6961.203
19251386065041332034110393811435316--83--239--.403.489.7561.245
19261346045279616734511244933--16--61--039--.317.388.463.851
1927NYG155684568133205329263331259--26--86--438--.361.448.5861.035
1928BSN1406214869918842721307945--25--107--141--.387.498.6321.130
1929CHC156712602156229478394091492--22--87--165--.380.459.6791.139
193042120104153251245180--3--12--112--.308.385.433.817
19311004193576411837116205901--5--56--023--.331.421.574.996
193219705810132011870--0--10--24--.224.357.310.667
1933STL46978392760239211--0--12--263.325.423.470.893
STB111192310172000--2--01--.333.455.7781.232
'33計571089211307034623100--14--273.326.426.500.926
1934243123272011211000--7--14--.304.484.5221.006
19351027241530083000--3--06--.208.296.333.630
19362651200022000--1--00--.400.500.400.900
19372063567183012411000--7--05--.321.397.429.825
通算:23年225994808173157929305411693014712158413564216--1038--486793.358.434.5771.010
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル 編集

表彰 編集

記録 編集

  • 最多安打:4回(1920年 - 1922年、1924年)
  • 最多得点:5回(1921年、1922年、1924年、1927年、1929年)
  • ワールドシリーズ出場:2回(1926年、1929年)
  • シーズン打率:.424(1924年)※1900年以降ナショナルリーグ最高打率。
  • 打率.400を3度達成(1922年、1924年、1925年)。
  • 右打者通算打率歴代1位 (.358)
  • シーズン安打数:250(1922年:歴代6位)
  • シーズン200安打以上を7回記録(1920年 - 1922年、1924年、1925年、1927年、1929年)

年度別監督成績 編集



















1925STLNL1156451.5574位5月31日 -
19261568965.5781位WS優勝
1927NYG332210.6883位9月3日 -
1928BSN1223983.3207位
1930CHC4401.002位9月25日 -
19311568470.5453位
1932995346.5351位- 8月2日
1933STBAL541933.3658位7月29日 -
19341546785.4416位
19351556587.4287位
19361555795.3757位
1937782552.3258位- 7月20日
1952512229.4317位- 6月8日
CINNL512724.5296位8月5日 -
19531476482.4386位- 9月16日
通算成績1530701812.463

脚注 編集

  1. ^ “降り注ぐ陽光、そよぐ風、溢れる希望「スプリングトレーニングの起源と変遷」”. (2019年2月6日). https://news.jsports.co.jp/baseball/article/20190206123832/ 2020年2月26日閲覧。 
  2. ^ All-Time #MLBRank: The 10 greatest second basemen” (英語). ESPN.com (2016年7月16日). 2017年3月12日閲覧。
  3. ^ Best second basemen ever” (英語). Fox Sports (2011年9月27日). 2017年3月12日閲覧。
  4. ^ Top Second Basemen of All-Time” (英語). THOUGHTCO (2017年2月13日). 2017年3月12日閲覧。
  5. ^ パット・サマーオール『ヒーロー・インタヴューズ』朝日新聞社刊、325ページ

出典・外部リンク 編集