水沼 四郎(みずぬま しろう、1947年2月27日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手捕手)・コーチ解説者

水沼 四郎
基本情報
国籍日本の旗 日本
出身地兵庫県尼崎市
生年月日 (1947-02-27) 1947年2月27日(77歳)
身長
体重
174 cm
74 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手
プロ入り1968年 ドラフト2位
初出場1969年4月12日
最終出場1983年6月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (1983 - 1986)

経歴 編集

プロ入りまで 編集

報徳学園では、同期のエース長坂正稔(中大東芝)を擁し、1964年春の選抜に出場。1回戦は北角富士雄のいた東邦高に9回サヨナラ勝ち。2回戦ではこの大会に優勝した徳島海南高尾崎将司に完封を喫した。同年夏の甲子園県予選では、準決勝で育英高鈴木啓示に抑えられ惜敗。他の高校同期に基満男三宅昇、1年下に控え投手の谷村智博がいた。

卒業後は長坂、三宅とともに中央大学へ進学。東都大学野球リーグでは、1年生時から高橋善正らとバッテリーを組み活躍。1967年春季リーグでは宮本幸信の好投もあり優勝を飾る。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で慶大を破り初優勝。リーグ通算94試合出場、322打数65安打、打率.202、7本塁打、30打点。ベストナイン2回。

現役時代 編集

広島東洋カープ時代 編集

1968年ドラフト2位で広島東洋カープに入団。当時の広島の捕手陣は田中尊久保祥次がレギュラーを争っていた。

1971年には正捕手に抜擢された。8月19日には中日を相手に、藤本和宏とバッテリーを組みノーヒットノーランを達成した[1]

1972年はシーズン前半を故障欠場、久保祥次に定位置を譲るが7月には復活した。

1974年には打力に優る西沢正次にポジションを譲るが、同年末に西沢が太平洋クラブライオンズに移籍し定位置を取り戻す。

1975年のリーグ初優勝に貢献、同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、シーズン後半に台頭した道原裕幸が主に先発マスクを被るが、全6試合に出場し投手陣を支えた。

1976年は開幕から道原が起用されるが、5月には定位置を奪還。

1978年には119試合に先発マスクを被り、初の規定打席(30位、打率.271)に達する。

1979年1980年の連続日本一にも大きく貢献。1979年の近鉄との日本シリーズは全7試合に先発マスクを被り、11月4日の最終第7戦では6回に柳田豊から勝ち越しとなる2点本塁打、結局これが決勝点となる。9回裏のいわゆる「江夏の21球」の際の捕手も水沼であった。翌1980年の近鉄との日本シリーズも全7試合に先発、第3戦では9回に井本隆から決勝適時2塁打を放つ。

1981年7月15日、同僚の高木真一が運転する車の助手席に乗っていた際に交通事故に巻き込まれ、頭を30針縫う大ケガを負った。このため定位置を道原に譲るが8月には復帰、しかし同年は達川光男の成長もあり出場機会が大きく減少した。

中日ドラゴンズ時代 編集

1983年中日ドラゴンズへコーチ兼任で移籍し、同年引退。

現役引退後 編集

現役引退後の1984年から86年まで中日でバッテリーコーチを務めた。その後は監督古葉竹識の招聘で横浜大洋ホエールズのスカウトを務めた。スカウト業の傍らで読売テレビ広島テレビ野球解説者も兼任。

1997年広島市へ戻ると、少年野球の指導に力を入れたほか、東広島市お好み焼き店「しろう」を経営した。14年間営業したが、2007年5月24日脳梗塞で倒れ3ヶ月半入院して一旦閉店し[2]、リハビリを経て回復し、広島市中区で同名の居酒屋を開店した[3]。同店は2015年2月22日より「カープ100円食堂」にリニューアルし、現在は夫人と共に実業家として活動している[4][5]

孫の山本彩加は、NTT西日本広島所属のソフトテニス選手として活躍している。

選手としての特徴 編集

打力はそれほどではなかったが、捕手としての能力は高く、ノーサインでも獲れるキャッチングの上手さ、冷静かつ大胆なリード、そして捕手としては俊足であるという武器もあり、チームの要としての役割を十分に果たし、1971年以降の10年はほとんどのシーズンで広島のレギュラー捕手として活躍した。

正捕手だったこともあり、捕手としての守備力は高く評価されていた。のちの正捕手のひとりとなり、カープ入りを熱望していた達川光男も「高校の時点でスカウトがきたけど、水沼さんがいるのだから出場機会がないのは大いに予想できた。自分だって早くプロになりたかったけど、水沼さんに負けるのがわかったから、大学へ行って実力をつけてから指名を待とうと考えた」と語っている[6]

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1969広島49434235101911000001100.119.140.214.354
19707814813172710234624301242312.206.283.260.542
1971952191911434003431871721732311.178.250.225.475
1972591691521130410361022421011275.197.248.237.485
19731072732411346720571566602650502.191.270.237.506
197469170159123740144113101931253.233.276.277.553
197511628325522537216719114602072316.208.271.263.534
19761243683283682161111334663552842398.250.309.405.714
1977118381334398416251193271603635488.251.333.356.690
197812744538851105193715146379344714712.271.344.389.733
197910028123530651024912451613643399.277.378.387.765
198011733829325646258921701612652572.218.286.304.589
1981771921671643310481234531631285.257.321.287.608
19827412011010214113071010920151.191.252.273.525
1983中日235038310300135003181062.263.383.342.725
通算:15年133334803064292706101174196427364347719297522348466.230.301.315.616

年度別守備成績 編集


捕手
試合刺殺補殺失策併殺捕逸守備率企図数許盗塁盗塁刺阻止率
1969311091.100
197072392019.487
19719236728211.995604317.283
197259482721.438
197310448552154.998814635.432
197461582929.500
197511348440862.985704624.343
197612367045563.993906030.333
197711559649692.991926527.293
197812769451595.993794237.468
19799750135340.994472819.404
198011549848461.993755520.267
19817229326151.997483414.292
19826225187.280
19831718162.111
通算12605799496406628.994840538302.360

記録 編集

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1979年7月13日、対阪神タイガース11回戦(阪神甲子園球場)、8番・捕手として先発出場 ※史上210人目

背番号 編集

  • 39(1969年 - 1973年)
  • 22(1974年 - 1982年)
  • 66(1983年)
  • 86(1984年 - 1986年)

脚注 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集