ジャック・ハウエル

ジャック・ロバート・ハウエルJack Robert Howell , 1961年8月18日 - )は、アメリカ合衆国アリゾナ州ツーソン出身の元プロ野球選手内野手)。右投左打。

ジャック・ハウエル
Jack Howell
基本情報
国籍アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地アリゾナ州ツーソン
生年月日 (1961-08-18) 1961年8月18日(62歳)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
201 lb =約91.2 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション三塁手
プロ入り1983年 アマチュアFA
初出場MLB / 1985年5月20日
NPB / 1992年4月4日
最終出場MLB / 1999年7月17日
NPB / 1995年7月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

経歴 編集

来日前 編集

1983年カリフォルニア・エンゼルスと契約してプロ入り。

1985年メジャー初昇格。ダグ・デシンセイの衰えもあって1987年に正三塁手となり、同年23本塁打ヤンキー・スタジアムでの試合でバットを折りながらも打球を右中間スタンドに叩き込むほどパワーがあった。

1990年より出場数が減り、1991年途中にサンディエゴ・パドレスに移籍した。

ヤクルト時代 編集

1991年12月9日ヤクルトスワローズに入団。

1992年シーズン当初は日本の野球になじめず、前半戦で8本塁打に終わるなど、その年限りとの噂が飛び交った。しかし、オールスター後では61試合出場で30本塁打と大爆発。結果的にシーズン38本塁打で本塁打王に輝くほか、首位打者も獲得し、ヤクルト14年ぶりのリーグ優勝に貢献、シーズンMVPも受賞することとなった[1][2]。MVP受賞の会見で、「MVPは古田君が獲ると思っていた。この賞は彼にあげたい」とコメントした。

ちなみに後半戦の大爆発の原因としては、当時「オールスターゲーム期間中に伊勢孝夫打撃コーチとともに打撃フォームのチェックや日本の投手の癖などを研究した」と伝えられることが多かったが、後に伊勢は「実はバットを1インチ短いもの(35インチ→34インチ)に交換させた以外は何もしていない」と語っている。伊勢は前半戦のハウエルのスイングを見て、内角球に対しバットをうまくさばけず詰まって凡打に終わることが多かったことに着目し、「バットを短くすることでその問題が解消するのでは」と考えてバットを交換させたところ、それがピタリとはまり内角球をバットの芯でとらえられるようになったという[3]

ただし日本シリーズでは、第1戦第4打席の初安打の後、3試合連続計13打数ノーヒット、第3戦では石井丈裕に4打席4三振を喫するなど絶不調で、第5戦第2打席に渡辺久信から先制の3点本塁打を放ち、第6戦7回裏に鹿取義隆から同点ソロ本塁打を放つなどしたものの、第7戦では再び石井に5打数無安打3三振に抑えられるなど、結局30打数4安打.133に終わり、チームも日本一を逃した。なお、7戦合計で16三振を記録したが、これは2021年の日本シリーズ終了時点においても、1回の日本シリーズにおける個人の最多三振記録である。

1993年は、数字的には前年よりも劣ることとなったが、勝負強さは前年より増しており、当時日本記録だった1シーズンサヨナラホームラン3本を軽く塗り替える5本のサヨナラ弾を打ち込み、ヤクルトの15年ぶりの日本一の立役者となった(ちなみに、ヤクルトのチーム全体でもサヨナラ勝利14回、サヨナラホームラン9本という日本記録を打ち立てている)[4]

同年6月8日の対巨人戦の初回表、巨人先発・宮本和知が古田に死球すれすれの球を2球投げ、3球目も内角を投げたところ死球になってしまい、両チームがベンチから飛び出し睨み合いとなった。更に次の打者広沢克己がフェンス直撃のヒットを放ち一塁ランナーの古田が一気にホームを狙ったがクロスプレーでタッチアウト。そのクロスプレーでタッチの際に捕手の吉原孝介がスライディングした古田に対して報復とばかりにタッチを連発。それに対し(広澤の)次の打者のハウエルが吉原に詰めより激怒、遂に両チーム総出の大乱闘に発展してしまう。ハウエル、吉原は乱闘の当事者として共に退場処分となった。また乱闘の際にハウエルが当時巨人のコーチであった中畑清にヘッドロックをかけられているシーンが珍プレー番組で取り上げられた。尚、その前の試合6月6日対広島戦では本塁でクロスプレーとなった池山隆寛西山秀二に殴られると乱闘に発展して西山の頭を抑え込んでいた。

1994年は、相手球団の投手から徹底的にマークされ、シーズン当初から不振に悩まされる。徐々に慕っていた、当時の監督野村克也との関係は険悪になっていった[5]。さらにはアメリカ本国の夫人から離婚訴訟を提起されるなど、公私ともに絶不調を極め、シーズン終了後の同年11月8日に退団(事実上の解雇)が発表された。

巨人時代 編集

1994年オフに当時のライバルチームと言われていた読売ジャイアンツが契約を持ちかけ、ハウエルはこれに同意し12月13日入団が決まった。FA宣言していた同僚の広沢とともに、ヤクルトから巨人へ移籍することとなった。

1995年シーズンはまずまずの成績を残していたものの、離婚訴訟が本格化し7月にアメリカに帰国し、そのまま8月19日に退団が発表され自由契約となった。

帰国後 編集

1996年に古巣であるエンゼルスへ復帰した。

1997年、日本からエンゼルスに渡った長谷川滋利の初登板(初先発)の試合では指名打者としてラインアップに名を連ねた。

1998年ヒューストン・アストロズに移籍し、1999年限りで現役引退した。

現役引退後 編集

2002年アリゾナ・ダイヤモンドバックス傘下ルーキー級ミズーラ・オスプレイ英語版の監督に就任[6]

2009年途中から2010年までアリゾナ・ダイヤモンドバックスの打撃コーチを務めた。

2018年からはロサンゼルス・エンゼルス傘下A級バーリントン・ビーズ英語版の監督を務めた[7]。その後もエンゼルス傘下マイナーの監督を歴任しており、2021年からはA-級インランド・エンパイア・66ers英語版の監督[8]2022年からはA+級トリシティ・ダストデビルズ英語版の監督を務めている[9]

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1985CAL431581371927405461811411620331.197.279.336.615
19866317515126411424712120321900281.272.349.470.819
1987138511449641101852320764431257421187.245.331.461.792
1988154558500591273221621163264246861308.254.323.422.745
1989144533474561081942019552033152931258.228.308.411.719
1990105366316357219181173330124651613.228.326.370.696
1991329281111720225711001100111.210.304.309.613
SD581791602433316561600101810331.206.287.350.637
'91計902712413550518812311102910442.207.293.336.629
1992ヤクルト113435387671282113826587330141268610.331.402.6851.087
199312149539672117151282188831088665838.295.420.551.971
19941054313635491140201655647036243745.251.362.455.816
1995巨人662582193561100141134111003722662.279.388.516.904
1996CAL
ANA
661361262034418642101001000303.270.324.508.831
19977719117425457014943410131320364.259.305.540.845
1998HOU2442384115011970000400121.289.357.500.857
199937413327201121000080091.212.366.364.729
MLB:11年9412982263934563212916108111733714151813300311262639.239.318.423.742
NPB:4年405161913652283976021007612721112012226141630925.291.395.558.952
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • CAL(カリフォルニア・エンゼルス)は、1997年にANA(アナハイム・エンゼルス)に球団名を変更

タイトル 編集

NPB

表彰 編集

NPB

記録 編集

NPB初記録
NPB節目の記録
  • 100本塁打:1995年7月23日、対中日ドラゴンズ17回戦(ナゴヤ球場)、6回表に山本昌広から逆転決勝3ラン ※史上182人目
NPBその他の記録

背番号 編集

  • 16(1985年 - 1991年途中)
  • 28(1991年途中 - 同年終了)
  • 44(1992年 - 1994年)
  • 40(1995年)
  • 32(1996年 - 1997年)
  • 36(1998年 - 1999年)
  • 36(2009年 - 2010年)

脚注 編集

  1. ^ 元ヤクルトMVP砲が語るノムさん&NPBの教え「タカツさんとスワローズの健闘を」”. Full-Count(フルカウント) ― 野球ニュース・速報・コラム ― (2021年10月26日). 2022年4月30日閲覧。
  2. ^ 【オピD野球】ヤクルトは、このままセ・リーグ連覇に突っ走れるのか。新外国人キブルハンの存在が追い風となる予感”. デイリースポーツ online (2022年6月6日). 2022年6月7日閲覧。
  3. ^ 東京スポーツ・2010年3月2日付 連載「ID野球の伝道師」
  4. ^ ヤクルトの“歴代最強”サード5人。球団史を彩る正三塁手の系譜、スワローズレジェンド選手たちの成績は?”. ベースボールチャンネル(BaseBall Channel). 2022年4月30日閲覧。
  5. ^ ジャック・ハウエル ヤクルト日本一に貢献し、平成球史を大きく変えた巨人移籍/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2022年4月30日閲覧。
  6. ^ 2002 Missoula Osprey”. Baseball-Reference.com. 2023年3月4日閲覧。
  7. ^ ワールドスポーツMLB』(NHK-BS)2018年9月8日放送分より
  8. ^ Angels announce 2021 Minor League development staffs” (英語). MLB.com (2021年4月5日). 2021年4月14日閲覧。
  9. ^ Tri-City Dust Devils (2023年2月16日). “Dust Devils Announce 2023 Coaching Staff”. MiLB.com. 2023年3月4日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集