加藤和彦

日本の音楽プロデューサー、作曲家、ギタリスト、歌手 (1947-2009)

加藤 和彦 (かとう かずひこ、1947年3月21日 (1947-03-21)[1] - 2009年10月16日 (2009-10-16)[2])は、日本音楽家作曲編曲音楽プロデュース撥弦楽器鍵盤楽器などの演奏・歌唱を通じて、制作者実演家として活動した。愛称は「トノバン[注釈 1]

加藤 和彦
生誕 (1947-03-21) 1947年3月21日
出身地日本の旗 日本 京都府京都市伏見区
死没
学歴龍谷大学経済学部中退
ジャンル現代音楽
職業
担当楽器
  • 撥弦楽器全般
  • 鍵盤楽器全般
活動期間1965年 (1965) - 2009年 (2009)
レーベル
共同作業者

概要 編集

1960年代フォークグループ『ザ・フォーク・クルセダーズ』(通称フォークル)でデビュー。その後、ソロ活動に移行し、並行して1970年代初頭から中盤にかけてロックバンド『サディスティック・ミカ・バンド』で活動するなど、斬新なアイデアに満ちた創作活動で、1960年代後半から70年代の日本のミュージックシーンをリードした。

1970年に、のちにサディスティック・ミカ・バンドのヴォーカリスト・ミカになる福井ミカと結婚するが1975年に離婚。サディスティック・ミカ・バンドも同年に解散した。1977年に作詞家の安井かずみと再婚する。安井が病に倒れる1990年代初頭まで「作詞・安井かずみ/作曲・加藤和彦」のコンビで、通称『ヨーロッパ三部作』[注釈 2] などのソロ作品のほか、数々の作品を他ミュージシャンに提供した。時代の先端を行くファッショナブルな2人のライフスタイルも世間の注目を集めた[注釈 3]。1980年代から映画・舞台音楽、1990年代後半からはスーパー歌舞伎の音楽など、ポップミュージックの垣根を越えたさまざまなジャンルの音楽も幅広く手がけていた。

略歴 編集

出生 編集

京都市伏見区に生まれる。生後すぐに神奈川県に移り、小学校4年まで鎌倉と逗子市で過ごし[book 1]、その後京都に戻り1年で東京へ転居し、高校卒業まで日本橋で育つ[book 1][book 2]。加藤自身「実は江戸っ子なんです」と述べている[book 1]

ザ・フォーク・クルセダーズ結成 編集

1963年に発表された、ボブ・ディランの『くよくよするなよ (Don't Think Twice, It's All Right)』に影響を受け、ギターを始める。1965年東京都立竹台高等学校を卒業後[3]、仏師だった祖父の後を継ぐ気持ち半分で[book 3] 京都市伏見区の実家に近い仏教系大学龍谷大学に入学する。このころからアマチュア・フォークグループ、「ザ・フォーク・クルセダーズ」の活動を始める。

プロデビュー 編集

1967年にザ・フォーク・クルセダーズの解散記念として、自費でアルバム(インディーズではない)『ハレンチ(破廉恥)・ザ・フォーク・クルセダーズ』を制作。その中の『帰って来たヨッパライ』に対するリクエストがラジオ局に殺到し、プロデビューの話が持ち込まれる。加藤は難色を示したが、北山修の説得[book 4] を受けて龍谷大学経済学部を中退する。東芝音楽工業株式会社と契約し、1年限定でプロの世界に入る。

1968年に、ザ・フォーク・クルセダーズの2枚目のシングルとして予定していた『イムジン河』が発売中止となる。1968年7月1日に『水虫の唄』(作詞・作曲:山田進一、補作詞:足柄金太、補作曲:河田藤作)をアルバム『紀元貮阡年』の先行シングルとして発売した。彼らは曲に合わせていろいろな名前を使い分け、このシングルは「ザ・ズートルビー」という名前で発表した。1968年10月17日にザ・フォーク・クルセダーズは解散する。

第1期ソロ活動 編集

1969年にシングル『僕のおもちゃ箱』を発表し、ソロ活動を開始。同時に作曲家としての作品提供も始め、キングストン・トリオのメンバーであるジョン・ステュワートに因んだ「ジョン」というペンネームを用いて自身のファンクラブ「クラブ・ジョン」を設立し、楽譜の出版なども行う。

シンガーとしては「トノヴァン」の愛称に示されるようなドノヴァンの影響下にある歌唱法を確立していく[book 5]。この時期は頻繁にロンドンを訪れ、吉田克幸と知り合う。1970年7月福井ミカと結婚。1971年4月5日 、北山修との連名によるシングル『あの素晴しい愛をもう一度』を発表。

サディスティック・ミカ・バンド結成 編集

1971年11月に配偶者のミカをボーカルに据えたサディスティック・ミカ・バンドを結成。ロンドンポップ、グラム・ロックレゲエ琉球音階などを導入するなど、実験精神に溢れたサウンドを展開。

1973年に、英国滞在時にザ・フォーク・クルセダーズの印税を投入して購入したPA機器、WEMを用いて、日本初のPA会社「ギンガム」を設立[book 1]する。1973年にナショナル住宅建材株式会社のCMに使われた『家をつくるなら』をソロ名義でシングル発売する。

1974年クリス・トーマスのプロデュースによるセカンド・アルバム『黒船』を発表する。10月2日から23日まで、ロキシー・ミュージックのオープニング・アクトとしてイギリス・ツアーを催す[4]1975年にミカと離婚し、サディスティック・ミカ・バンドは解散する。

第2期ソロ活動 編集

1976年にシングル『シンガプーラ』を発表し、ソロ活動を再開する。1977年に同シングルの作詞を手がけた安井かずみと再婚し、以後、安井とのコンビで数多くの作品を発表した。1979年ワーナー・パイオニア[注釈 4] へ移籍する。

1983年CBS/SONYへ移籍し、ソロ・アルバム『あの頃、マリー・ローランサン』を発表。同年、村上龍原作の映画『だいじょうぶマイ・フレンド』の音楽監督を務め、以後多くの映画音楽を手がける。1980年代後半からは舞台音楽も手がけ、「スーパー歌舞伎」を加藤と共同で制作した市川猿之助は「歌舞伎史上初めて洋楽オーケストラを歌舞伎に取り入れた」と語った[5]1984年公開のアニメ映画『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』の劇中歌『愛・おぼえていますか』で第2回日本アニメ大賞主題歌賞を受賞する。

バンド活動再開 編集

1985年6月15日、国立競技場で5万人の観客を集めて開催された国際青年年 (IYY) 記念イベント"ALL TOGETHER NOW"にサディスティック・ユーミン・バンド(ヴォーカルは松任谷由実)として出演。1987年東芝EMIに移籍し、ソロ・アルバム『マルタの鷹』を発表。1989年、サディスティック・ミカ・バンドを再結成。ヴォーカリストとして桐島かれんを迎え、アルバム『天晴』を発表。

1991年2月、安井かずみとの最後の共作となったソロ・アルバム『ボレロ・カリフォルニア』を発表。同年8月には画家の金子國義、CGアーティストの庄野晴彦と協同で日本初のマルチメディアソフト『Alice』を制作。1994年、安井かずみが死去。

1995年、クラシック音楽のソプラノ歌手、中丸三千繪と再々婚。1996年9月からNHK趣味百科「アコースティック・ギター入門」に講師として石川鷹彦とともに出演。教材として『あの素晴しい愛をもう一度』などを取り上げた。10月にはフジテレビ系『ポンキッキーズ』挿入歌として、西田ひかるとのデュエット曲『メロディー』を発表。2000年、中丸と離婚。

2002年、ザ・フォーク・クルセイダーズを新結成。同時に催された「新結成解散コンサート」は市川猿之助と共に歌舞伎の口上で幕を開けた。2005年PlayStation 2用ゲームソフト『天外魔境III NAMIDA』の音楽を担当。指揮に佐渡裕、演奏に新日本フィルハーモニー交響楽団、歌手にサラ・ブライトマンを起用した。

2006年、サディスティック・ミカ・バンドを再々結成。ヴォーカルに木村カエラを迎え、アルバム『NARKISSOS』を発表。2007年には坂崎幸之助とのユニット「和幸(かずこう)」を結成。第1期ソロ時代の楽曲『不思議な日』なども取り上げた。

2008年3月、加藤を中心として小原礼屋敷豪太土屋昌巳が集まり、「男4人じゃムサい」とANZAをボーカルに起用し、VITAMIN-Q featuring ANZAを結成した。バンド名はエレクトリックギターやベースのパーツとして使われるオイルコンデンサーの名前から取られている[6]。同年12月、『VITAMIN-Q』発表。

2009年10月2日東京国際フォーラムでの松任谷由実のコンサートにゲスト出演し、「黄色いロールスロイス」にギターとヴォーカルで参加。これが公の場に姿を見せた最後の機会となった。

死去 編集

2009年10月17日長野県北佐久郡軽井沢町ホテル遺体となって発見された。死因は首吊りによる自殺と見られている[2][7][注釈 5]。62歳没。

没後 編集

2009年12月10日、北山修と坂崎幸之助の主催で「加藤和彦さんを偲ぶ会 KKミーティング」が行われる。生前の関係者が多数参加し、500名ほどが参加した[8]

2012年3月にNHK「ハイビジョン特集」にて安井の闘病生活を題材とした単発ドラマ「優雅な生活が最高の復讐である」が放映され、安井役を麻生祐未、加藤役を袴田吉彦が演じた[9]

人物 編集

創作 編集

  • 「同じことは二度とやらない」をモットーとしており、サディスティック・ミカ・バンドザ・フォーク・クルセダーズ再結成の際も、過去とは全く異なるアプローチで臨んでいた(フォーク・クルセダーズは「再結成」ではなく「新結成」であると加藤は語っていた)[10]
  • 「自分以上でも、自分以下でもない音楽」を作ることを信条とし、自身の生活におけるあらゆる体験が作品に昇華されるとした。ただし、体験が10とした場合、実際の作品に及ぼす影響は1くらいだという[book 7]
  • 映画音楽については、映画の持つウェイトを1とした場合、音楽を2として、両方合わせて5くらいになる作品を創りたいとしている[book 8]

趣味 編集

  • 自ら本格的な料理を作ることを好み、専門の料理人について学んでもいる。ザ・フォーク・クルセダーズとしてプロデビューするまではコックの仕事に就く予定だった。加藤は料理と音楽創りには相通ずるものがあるとし、食材を楽曲、調理をレコーディング、食べることを聴くことに例えている[book 3][book 9]
  • 読書家であり、中学時代から集めていたハヤカワ・ミステリの蔵書は900冊に上っていた[book 1]。読む本のジャンルもさまざまで、安井かずみによれば、しばしば加藤は複数の本を同時進行で読んでいたという[book 10]
  • ファッション・リーダーとしても知られ、『MEN'S CLUB』や『POPEYE』などへの寄稿のほか[book 11]、『優雅の条件』『エレガンスの流儀』などの著書も出版している。

交友 編集

加藤と安井が友人達と通ったレストラン「キャンティ」(港区麻布台、2018年)
  • 吉田拓郎は、加藤の才能は日本では唯一無二なもので、10人の歌手の10通りの歌へのアドバイスが即座にできるとし、自身もアレンジを依頼した『結婚しようよ』での加藤の仕事ぶりを目にしてから、音楽をやって行く自信がついたと語っている[book 12]
  • アイドル歌手の西田ひかるに曲を提供しているが、当時はまだ若くなおかつ帰国子女である西田には、加藤の仕事についての知識はあまりなかった。レコーディング前に行われるレッスンに加藤が参加した際は、音楽業界の大立者である加藤見たさに、普段は顔を出さないレコード会社の社員やスタッフなどが大勢集まり、とても賑やか(加藤が挨拶や握手攻めに遭っていて、なかなかレッスンがスムーズに進行せず、西田には迷惑なくらい)だったという。
  • 晩年は鬱病を患い、死の直前にはそれが悪化していたという。死の1週間前には、神経症が持病の高橋幸宏と電話で「今、鬱でね」「どういう薬飲んでる?」と気楽に話しており、3日前には故郷の京都で旧友らと会食している。
  • 遺書には「世の中が音楽を必要としなくなり、もう創作の意欲もなくなった。死にたいというより、消えてしまいたい」と綴られていたという[11]
  • 1993年、日本基督教団鳥居坂教会で、2番目の妻の安井かずみと揃ってキリスト教の洗礼を受けた。しかし、2009年に営まれた葬儀は生前の本人の遺志から無宗教方式で、喪主も葬儀委員長も立てずに密葬で行われた[12]

受賞歴 編集

ディスコグラフィ 編集

シングル 編集

#発売日タイトルB面規格規格品番オリコン最高位
東芝音楽工業 / EXPRESS
1st1969年4月10日僕のおもちゃ箱明日晴れるかEPEP-114370位
2nd1969年9月10日ネズミ・チュウ・チュウ・ネコ・ニャン・ニャン日本の幸福EPEP-1173圏外
3rd1969年10月10日ぼくのそばにおいでよアーサーのブティックEPEP-1184圏外
東芝音楽工業 / DOUGHNUT
4th1973年3月20日家をつくるなら不思議な日EPDTP-2815圏外
5th1976年11月30日シンガプーラキッチン&ベッドEPDTP-10161圏外
ワーナー・パイオニア / ワーナー・ブラザース・レコード
6th1979年10月21日アラウンド・ザ・ワールドジョージタウンEPK-19W圏外
7th1980年4月25日ソルティ・ドッグレイジー・ガールEPK-26W70位
8th1980年8月1日おかえりなさい秋のテーマ - 絹のシャツを着た女サン・サルヴァドールEPK-33W36位
9th1980年11月28日ルムバ・アメリカンパリはもう誰も愛さないEPK-34W圏外
10th1981年7月25日ロスチャイルド夫人のスキャンダル浮気なGIGIEPK-1507W圏外
Kitty Records
11th1983年3月25日だいじょうぶマイ・フレンド街に風が吹く時EP7DS-003596位
CBS/SONY
12th1983年8月25日優しい夜の過し方あの頃、マリー・ローランサンEP07SH 1380圏外
13th1985年9月21日ハリーズBAR真夜中のバレリーナ
ソング・フォー・ヴェネツィア
12inch12AH 1912圏外
東芝EMI / TM FACTORY
-1992年8月5日INNOCENCE〜AGURI'S THEMEThe Silverstone[注釈 6]8cmCDTODT-2862圏外
ソニー・ミュージックエンタテインメント
14th1999年12月18日愛はピカピカ愛はピカピカ(リミックス・ヴァージョン)MaxiSRCL 4740圏外

コラボレート・シングル 編集

発売日タイトルB面規格規格品番発売元オリコン最高位
チッチとサリー[注釈 7]
1970年3月5日チッチとサリーカフェ・ル・モンドのメニュー[注釈 8]EPEP-1208東芝音楽工業 / EXPRESS圏外
加藤和彦と北山修
1971年4月5日あの素晴しい愛をもう一度僕を呼ぶ故郷EPCTP-2415東芝音楽工業 / CAPITOL10位
吉田拓郎・加藤和彦
1985年12月5日ジャスト・ア・RONINRONINEP7K-206フォーライフ・レコード68位
吉田拓郎 & 加藤和彦
1993年12月22日純情5月の風[注釈 9]8cmCDTODT-3161東芝EMI / EASTWORLD93位
西田ひかる with 加藤和彦
1996年10月1日メロディーメロディー (ひかるヴァージョン)8cmCDPCDA-00899ポニーキャニオン67位

アルバム 編集

スタジオ・アルバム 編集

発売日タイトル規格規格品番オリコン最高位
東芝音楽工業 / EXPRESS
1st1969年12月1日ぼくのそばにおいでよLPEP-7729圏外
東芝音楽工業 / CAPITOL
2nd1971年10月5日スーパー・ガスLPCTP-9040圏外
東芝EMI / DOUGHNUT
3rd1976年12月20日それから先のことは…LPDTP-72223圏外
4th1978年2月5日ガーディニアLPDTP-72295圏外
ワーナー・パイオニア / ワーナー・ブラザース・レコード
5th1979年10月25日パパ・ヘミングウェイLPK-10019W67位
6th1980年9月25日うたかたのオペラLPK-12001W10位
7th1981年7月25日ベル・エキセントリックLPK-12501W48位
CBS/SONY
8th1983年9月1日あの頃、マリー・ローランサンLP28AH160048位
CT28KH1356
1983年9月21日CD35DH48圏外
9th1984年11月1日ヴェネツィアLP28AH179184位
CT28KH1581
1985年8月25日CD32DH268圏外
東芝EMI / EASTWORLD
10th1987年12月5日マルタの鷹LPRT28-5059圏外
CTZT28-5059
CDCT32-5059
11th1991年2月27日ボレロ・カリフォルニアCDTOCT-5998圏外
CTTOTT-5998

コンピレーション・アルバム 編集

発売日タイトル規格規格品番オリコン最高位
東芝EMI / DOUGHNUT
1st1977年10月5日Catch-22LPDTP-60230/1圏外
ワーナー・パイオニア / ワーナー・ブラザース・レコード
2nd1982年3月アメリカン・バーLPK-6004圏外
CTLKF-1009
CBS/SONY
3rd1985年12月21日Le Bar TangoLP40AH1983/4圏外
CT40KH1812/3
CD32DH347
Pヴァイン
4th1999年2月25日加藤和彦の世界CDPCD-1472圏外
EMIミュージック・ジャパン / EXPRESS
5th2002年12月11日Memories 加藤和彦作品集CDTOCT-10895圏外
日本コロムビア
6th2012年10月3日加藤和彦作品集CDCOCP-37459/60圏外
ユニバーサルミュージックジャパン
7th2017年10月25日ヨーロッパ三部作・ベストセレクションCDUPCY-7443圏外
8th2024年5月22日The Works Of TONOVAN 〜加藤和彦作品集〜SHM-CDUICZ-8235/6TBA

サウンドトラック 編集

発売日タイトル規格規格品番オリコン最高位
東芝EMI / EASTWORLD
1983年7月16日探偵物語 オリジナル・サウンドトラックLPWTP-90250圏外
CTZH28-1350
CDCA35-1036
2005年4月13日天外魔境III NAMIDA オリジナル・サウンドトラックCDTOCP-67618圏外

イメージ・アルバム 編集

発売日タイトル規格規格品番備考オリコン最高位
東芝EMI / TM FACTORY
1992年8月5日LE PILOTECDTOCT-6541加藤和彦/マーク・ゴールデンバーグ名義
1992年のF1世界選手権に参戦したフットワーク無限ホンダのイメージ・アルバム。
圏外

トリビュート・アルバム 編集

発売日タイトル規格規格品番オリコン最高位
ギューン・カセット / 美音堂
2003年12月3日Catch-35CDENBN-004/5圏外
Sony Music Associated Records
2004年6月2日あの頃、マリー・ローランサン2004 A TRIBUTE TO K.Yasui & K.KatoCCCDAICL-1533圏外
CDAICL-1632

参加作品・楽曲 編集

発売日商品名楽曲備考
1969年11月カレッジポップス・コンサート実況録音盤加藤和彦「ぼくのそばにおいでよ」ゲストとして参加。
1970年3月カレッジ・ポップス出初式「カフェ・ル・モンドのメニュー」
1970年12月カレッジ・ポップス・イン・U.S.A.V.A.「カリフォルニア・ドリーミン」サポートメンバーとして参加し、12弦ギターを演奏している。
「アーリー・イン・ザ・モーニング」
「あなたの世界」
「サマータイム〜時には母のない子のように
「ジス・リトル・ライト」
「ロード・トゥ・フリーダム」
真白き富士の嶺
ソーラン節
「さらば」
「グッドナイト」
「ラ・バンバ〜聖者が町にやって来る〜おたまじゃくしはかえるの子」
「真白き富士の嶺」
「ソーラン節」
「さらば」
「グッドナイト」
「シング・アウト:ラ・バンバ」
「シング・アウト:聖者が町にやって来る」
「シング・アウト:おたまじゃくしはかえるの子」
「クローズイング:アイ・アイ・アイ」
1971年4月S.O.S.コンサート〜フォークとロックの大合同演奏会加藤和彦「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」ゲストとして参加。
「もしも」
「ふしぎな日」
1971年9月北山修・ばあすでい・こんさあと北山修加藤和彦あの素晴しい愛をもう一度大阪毎日ホールにおける実況盤
1971年12月ヤング・ジャパン国際親善演奏旅行加藤和彦家をつくるならゲストとして参加。
「ララ・ムラ」
1972年6月5日ジローズ・サヨナラ・コンサートジローズ「家をつくるなら」
1973年8月ラブ・ゼネレーション〜ラブ・ゼネレーション・ライヴ・コンサート加藤和彦サディスティック・ミカ・バンド「ピクニック・ブギ」
「銀河列車」
1981年2月21日スネークマン・ショードクター・ケスラーメケ・メケ
1983年渚にて…スティーヴ・ハイエット「Standing There」ギターとして参加。
1988年4月6日抱きしめたい加藤和彦ハニー・パイビートルズトリビュート・アルバム
1995年4月1日ゲンスブール・トリビュート'95MICHELLE FLYNN「うまうまマンボ」セルジュ・ゲンスブールのトリビュート・アルバム。
プロデュース、アレンジを担当。
2009年4月8日そしてもう一度夢見るだろう松任谷由実「黄色いロールスロイス」ユーミンのオリジナル・アルバム。

未発表曲 編集

  • 「泣いて泣いて」※ザ・フォーク・クルセダーズ解散直後にサトウハチローとのコンビで私的に作られた未発表曲。ライブで一度演奏したきりで未レコーディングのままになっていたが、2016年12月に村上紗由里の演奏(EPレコード、2017年5月にCDミニアルバム)で約半世紀ぶりに日の目を見た。

タイアップ 編集

曲名タイアップ収録作品
家をつくるならナショナル住宅 CMソングシングル「家をつくるなら
シンガプーラシンガポール航空 CMソングシングル「シンガプーラ
ソルティ・ドッグSUNTORY TROPICAL'80 イメージソングシングル「ソルティ・ドッグ
おかえりなさい秋のテーマ - 絹のシャツを着た女資生堂『おかえりなさい、秋の色』イメージソングシングル「おかえりなさい秋のテーマ - 絹のシャツを着た女
だいじょうぶマイ・フレンド(株)キティ・フィルム作品 東宝株式会社配給映画『だいじょうぶマイ・フレンド』オリジナル・サウンドトラック主題歌シングル「だいじょうぶマイ・フレンド
優しい夜の過し方東急建設 CMソングシングル「優しい夜の過し方
ジャスト・ア・RONIN(株)東京放送(株)電通提携作品/配給・東宝(株)『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』テーマ曲コラボレーションシングル「ジャスト・ア・RONIN
INNOCENCE〜AGURI'S THEME東芝Dynabook』CMソングシングル「INNOCENCE〜AGURI'S THEME」
純情テレビ東京12時間ドラマ織田信長』主題歌コラボレーションシングル「純情
メロディーフジテレビ系『ポンキッキーズ』メロディコラボレーションシングル「メロディー
愛はピカピカPlayStation・ソフト『fun! fun! Pingu 〜ようこそ南極へ〜』エンディング・ソングシングル「愛はピカピカ

映画音楽 編集

テレビ番組音楽 編集

舞台音楽 編集

  • 西遊記(1972年)
  • YOKOHAMAスーパーオペラ『海光』(1989年)
  • 西太后(1997年)
  • スーパー歌舞伎・新三国志(1999年)
  • KANSAI SUPER SHOW“ HELLO JAPAN! HELLO 21!! in Gifu”(2000年)
  • スーパー歌舞伎・新三国志II(2001年)
  • スーパー歌舞伎・新三国志III(2003年)
  • スーパー歌舞伎・ヤマトタケル(2005年)
  • 二十一世紀歌舞伎組・雪之丞変化2006(2006年)
  • スーパー歌舞伎・ヤマトタケル(2008年)
  • 二十一世紀歌舞伎組 新・水滸伝(2008年)
  • うたかたのオペラ(2009年)

※その他

ゲーム音楽 編集

その他 編集

  • 「大統領殿」※ボリス・ヴィアン作詞 Le déserteur「徴兵忌避者」の日本語版
  • 「手と手 手と手」※2008年のオリンパス・BRAVE CIRCLE 大腸がん撲滅キャンペーン・ソングで、加藤和彦のソロ名義で発表された最期の作品。無料配信曲としてリリースされ、非売品CDも頒布された[book 13]

提供楽曲リスト (抜粋) 編集

※五十音順、アルバムは太字で表記。

出演 編集

音楽番組 編集

テレビドラマ 編集

映画 編集

ラジオ 編集

CM 編集

料理番組 編集

ドキュメンタリー 編集

  • 「早過ぎた人 世紀の伊達男 加藤和彦」(NHK総合、2011年)

書籍 編集

単著 編集

共著 編集

  • 加藤和彦、立川直樹森永博志編『加藤和彦スタイルブック あの頃、マリー・ローランサン』CBSソニー出版、1983年11月。ISBN 9784789701112 
  • 加藤和彦、松木直也『加藤和彦 ラスト・メッセージ』文藝春秋、2009年12月。ISBN 9784163722801 
  • 加藤和彦、前田祥丈『エゴ〜加藤和彦、加藤和彦を語る』スペースシャワーネットワーク、2013年7月。ISBN 9784906700882 

安井かずみとの共著 編集

  • 『加藤和彦、安井かずみのキッチン&ベッド』(1977年7月、主婦と生活社
  • 『ワーキングカップル事情』(1984年1月、とらばーゆBooks / 1986年3月、新潮文庫
  • 『ニューヨーク・レストラン狂時代』(1987年5月、渡辺音楽出版
  • 『ヨーロッパ・レストラン新時代』(1990年2月、渡辺音楽出版)
  • 『カリフォルニア・レストラン夢時代』(1991年1月、渡辺音楽出版)

CD-ROM作品 編集

資料集 編集

※のちに“ヨーロッパ3部作"と呼ばれるようになる『パパ・ヘミングウェイ』『うたかたのオペラ』『ベル・エキセントリック』の3枚を、当時エンジニアとしてかかわった大川正義がオリジナル音源を元にリマスタリングしたCDと、録音時に使用した加藤の手書きによるコード譜や安井の手書きによる歌詞、レコーディング・スタジオのトラック・シートなどの資料を収録したCD付き書籍。

評伝 編集

  • 文藝別冊 編『加藤和彦 あの素晴しい音をもう一度』河出書房新社、2010年2月。ISBN 978-4-30-997731-7 

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ かつてはドノヴァン(Donovan)との関係から「トノヴァン」と呼ばれることも希にあったが、加藤がドノヴァンを批判するようになってからは「殿番」の意味合いも兼ねて「トノバン」と呼ばれてた。本人の署名も"TonoB"だった。
  2. ^ 1979年から1981年にかけて主にヨーロッパで録音された『パパ・ヘミングウェイ』、『うたかたのオペラ』、『ベル・エキセントリック』からなる三部作。『ヴェネツィア』(1984年)を含めて四部作とする場合も多い。
  3. ^ たとえば、『アサヒグラフ』1978年3月3日号p.90 「支度の時間がいいのです」などの雑誌記事や、『加藤和彦、安井かずみのキッチン&ベッド』、『ワーキングカップル事情』などの著書で二人の暮らしぶりが紹介されている。
  4. ^ 加藤がワーナー・パイオニアに所属していた1979年から1982年にかけて発表されたシングルとアルバムは同社の洋楽レーベル、ワーナー・ブラザース・レコードよりリリースされている。
  5. ^ 加藤の死去について、CDジャーナルムック『加藤和彦読本』にて、加藤の最後の著書となった『ラスト・メッセージ』に触れ「急遽挿入したのだろう、巻頭に北山修による追悼文を配したこの本が出たのが奥付によればそのおよそ2カ月後。追悼文の有無とは関係なく、あるいはインタビューの記録であるという形式にも関係なく、この本はやはり加藤自身による遺書だったのではないかと思う」「なぜか。まずは、『これから先』についての発言が、この本には皆無に近いということがある。いや、そもそも、80年代以降の話題はほんの少ししか出てこない」「もちろん、編集・取材にあたっての基本的な意図が『これから先のこと』にはなかった、ということもあるだろう。しかし、そうであっても、自身の未来図についての発言はどこかにあるはずだ。それが見当たらない」と記している。そして「いまとなっては単なる想像、いや邪推ということになるかもしれないが」と前置きしたうえで「この本のもとになったインタビューの時点で、加藤和彦はすでに未来を放棄していたのではあるまいか」[book 6]と結論付けている。
  6. ^ 『マーク・ゴールデンバーグ』名義
  7. ^ 翁玖美子とのユニット
  8. ^ 『加藤和彦とそのグループ』名義
  9. ^ 加藤のソロ楽曲

出典 編集

書籍 編集

  1. ^ a b c d e 『エゴ〜加藤和彦、加藤和彦を語る』
  2. ^ 週刊朝日朝日新聞社、1977年11月1日号、87頁
  3. ^ a b 『加藤和彦 ラスト・メッセージ』
  4. ^ 北山修『くたばれ芸能野郎』
  5. ^ ミュージック・マガジン』2009年12月号
  6. ^ 浜野智「第1章 加藤和彦をめぐる事件簿」『CDジャーナルムック 加藤和彦読本』、株式会社音楽出版社、2010年11月22日、13-32頁、ISBN 978-4-86-171061-2“『ラスト・メッセージ』の余白から” 
  7. ^ ロッキンf 1980年12月号』「加藤和彦 綿密分析!!」。同じ趣旨の発言は当該記事以外にも多くのインタビューで繰り返し述べている。
  8. ^ STUDIO VOICE vol.95』 流行通信 1983年
  9. ^ 月刊プレイボーイ』 1976年5月号 p.150「ジャック・ニコルソンに捧げるメニュー」
  10. ^ 『ワーキングカップル事情』
  11. ^ 『男子専科』1979年6月号 / 『POPEYE』1980年12月10日号参照。なお、加藤のファッション遍歴については『MEN!S Precious』2010年秋号 (小学館) 特集「加藤和彦 世紀の伊達男伝説」で概要がつかめる。
  12. ^ 『安井かずみがいた時代』
  13. ^ 『加藤和彦 あの素晴しい音をもう一度』
  14. ^ 藤岡和賀夫全仕事2 モーレツからビューティフルへ』PHP研究所、1988年

その他 編集

  1. ^ a b DJ名鑑 1987三才ブックス、1987年2月15日、55頁。
  2. ^ a b “「帰って来たヨッパライ」の加藤和彦さん 軽井沢で自殺”. スポニチアネックス (スポーツニッポン). (2009年10月17日). オリジナルの2009年10月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091018141134/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/flash/KFullFlash20091017059.html 2009年10月18日閲覧。 
  3. ^ 橡 さつき27号 - 都立竹台高校同窓会”. 2020年12月8日閲覧。
  4. ^ Discogs.com”. 2024年2月21日閲覧。
  5. ^ 『スーパー歌舞伎な男たち』(4/18/03 NHK)
  6. ^ Tune in VITAMIN-Q featuring ANZA|WEBマガジン e-days「イーデイズ」 at the Wayback Machine (archived 2011年3月15日)
  7. ^ “死亡男性は加藤和彦さん、自殺か”. MSN産経ニュース (産業経済新聞社). (2009年10月17日). オリジナルの2010年12月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20101201023427/http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/091017/crm0910171511013-n1.htm 2009年10月17日閲覧。 
  8. ^ 3月21日は加藤和彦の誕生日”. クリスチャンプレス (2020年3月20日). 2020年12月8日閲覧。
  9. ^ プレミアムドラマ 優雅な生活が最高の復讐である|NHK名作選(動画等)
  10. ^ サポーティングメンバー・インタビュー 加藤和彦 club willbe 2017年12月12日閲覧
  11. ^ 加藤和彦さん“遺書”の波紋…「売ろうとかいう呪縛」 - 芸能 - ZAKZAK
  12. ^ 加藤和彦さん密葬で遺書公開「消えたい」 - 芸能ニュース”. nikkansports.com. 2020年12月8日閲覧。
  13. ^ 『味の旅 フランス - 地球おいしいぞ』(日本テレビ放送網、1989年) / 『ヨーロッパ・レストラン新時代』(渡辺音楽出版、1990年)

関連項目 編集

外部リンク 編集