小倉市

福岡県にあった市

小倉市(こくらし)は、かつて福岡県東部に存在した。現在の北九州市小倉北区小倉南区に相当する。

こくらし
小倉市
小倉市章
小倉市章
1900年4月1日制定
廃止日1963年2月10日
廃止理由新設合併
小倉市門司市戸畑市八幡市若松市北九州市
現在の自治体北九州市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方九州地方
都道府県福岡県
市町村コードなし(導入前に廃止)
面積208.72km2.
総人口305,423
1962年(昭和37年)10月1日
隣接自治体門司市、戸畑市、八幡市、直方市行橋市田川郡香春町方城町赤池町京都郡苅田町勝山町
小倉市役所
所在地福岡県小倉市
座標北緯33度53分00秒 東経130度52分31秒 / 北緯33.88342度 東経130.87519度 / 33.88342; 130.87519座標: 北緯33度53分00秒 東経130度52分31秒 / 北緯33.88342度 東経130.87519度 / 33.88342; 130.87519
ウィキプロジェクト

企救郡(きくぐん)の一角で、1963年(昭和38年)2月10日門司市戸畑市八幡市若松市と合併して北九州市となった。1963年4月1日、北九州市の政令指定都市移行に伴い、旧小倉市は小倉区となり、1974年(昭和49年)には小倉北区小倉南区に分区された。

地理 編集

歴史 編集

律令制下では豊前国企救郡(きくぐん)の一地域となる。関ヶ原の戦いの論功行賞により豊前国の統治を始めた細川忠興が、1602年慶長7年)から当地に小倉城を築く。これ以後、小倉藩城下町となる。江戸時代初期には貿易の中心である長崎まで続く長崎街道の起点となるなど、当時から交通の要衝であった[1]1632年寛永9年)には細川氏に代わり、小笠原忠真が移封され、以後は小笠原氏による統治が続いた。1866年慶応2年)の長州征伐において長州藩側の反撃を受けて、小倉藩自らの手により小倉城は火が点けられ焼失した(現在の小倉城は1959年に復元された物)。

明治時代、廃藩置県により小倉県が成立し、小倉はその県庁所在地となったが、1876年(明治9年)に小倉県が福岡県に合併されたため、県庁所在地ではなくなった。その後も、官営八幡製鉄所を擁する八幡市などとともに北九州工業地帯の中心地として製造業のほか、軍需工業が発展した。特に1933年に建設された小倉造兵廠は、風船爆弾の製造基地ともなった。また、森鷗外は、軍医時代には一時期小倉に赴任していた。 戦前は小倉城日本陸軍第12師団が置かれている時期もあるなど、軍事都市であった。

第二次世界大戦の終結直前、1945年8月9日アメリカ軍による長崎市への原子爆弾投下は当初の投下目標は広島と同様に軍都であった小倉であった。長崎に変更された要因は、悪天候と、前日の八幡大空襲の余燼のためだった(八幡製鉄所の作業員がコールタールを燃やし煙幕を張ったためとする説もある)といわれる。小倉における原爆投下予定地は小倉造兵廠であり、日本の軍事拠点ということから広島市と共に原爆投下の候補地だった。10月17日アメリカ軍が進駐。

北九州市発足以降も、小倉北区は小倉城の城下町から続く北九州の商業の中心エリアとして栄えている。

行政区域の変遷 編集

町村制施行時は企救郡の一町として発足し、その後市制を施行し、企救郡内の町村を次々と編入して拡大した。

  • 1889年(明治22年)4月1日:町村制が施行され、企救郡旧小倉城下25町(京町・博労町・船頭町・舟町・船場町・古船場町・新魚町・魚町・西魚町・鳥町・大坂町・宝町・米町・鍛冶町・西鍛冶町・堺町・紺屋町・西紺屋町・馬借町・室町・八百屋町・大門町・堅町・田町・鋳物師町)・砂原村の一部(長松浦)・干上村の一部(平松浦)が合併し、小倉町となる。同時に以下の村が成立。
    • 板櫃村 ← 板櫃村・中井村・藍島村・槻田村・馬島
    • 西紫村 ← 小熊野村・篠崎村・蒲生村・今村
    • 西谷村 ← 田代村・長行村・辻三村・合馬村・徳吉村
    • 足立村 ← 足原村・三萩野村・砂津村・富野村・赤坂村
    • 城野村 ← 城野村・横代村・石田村・隠蓑村・堀越村・蜷田村
    • 東紫村 ← 北方村・守恒村・徳力村・南方村・志井村
    • 中谷村 ← 高津尾村・山本村・春吉村・道原村・頂吉村
    • 曽根村 ← 曽根村・田原村
    • 東谷村 ← 石原町村・新道寺村・母原村・井手浦村・木下村・市丸村・小森村・呼野村
  • 1900年(明治33年)4月1日 : 小倉町の市制施行により小倉市となる。
    • 1907年(明治40年)6月1日 : 城野村東紫村が合併して企救村となる。
    • 1908年(明治41年)4月1日 : 西紫村が分裂。大字小熊野・篠崎は板櫃村へ、大字蒲生・今は企救村へそれぞれ編入。
    • 1917年(大正6年)10月1日 : 企救村が町制施行して企救町となる。
    • 1922年(大正11年)10月1日 : 板櫃村が町制施行して板櫃町となる。
  • 1925年(大正14年)4月28日板櫃町のうち大字槻田・小熊野の各一部を除く部分を編入(分割し、板櫃町の残部は八幡市に編入)。
  • 1927年(昭和2年)4月1日 : 足立村を編入。
    • 1934年(昭和9年)4月1日 : 曽根村が町制施行して曽根町となる。
  • 1937年(昭和12年)9月1日企救町を編入。
  • 1941年(昭和16年)4月1日 : 西谷村中谷村を編入。
  • 1942年(昭和17年)5月15日曽根町を編入。
  • 1948年(昭和23年)9月10日東谷村を編入。
  • 1949年(昭和24年)9月1日 : 大字新道寺の一部を京都郡椿市村(現行橋市)に分離。
  • 1954年(昭和29年)4月1日 : 大字田代の一部を八幡市に分離。
  • 1957年(昭和32年)1月1日 : 八幡市と境界変更。
  • 1959年(昭和34年)11月1日 : 戸畑市と境界変更。
  • 1963年(昭和38年)2月10日八幡市門司市若松市戸畑市と新設合併し、北九州市の一部となり消滅。

人口の変遷 編集

  • 1920年  33,954
  • 1925年  51,663
  • 1930年  88,049
  • 1935年 110,372
  • 1940年 173,639
  • 1945年 131,688
  • 1947年 168,119
  • 1950年 199,397
  • 1955年 242,240
  • 1960年 286,474

行政 編集

歴代市長 編集

歴代市長[2]
氏名就任日退任日備考
官選
-原口大成1900年(明治33年)4月1日1900年(明治33年)6月28日臨時市長代理
1吉沢直行1900年(明治33年)6月28日1901年(明治34年)2月8日
2村岡益章1901年(明治34年)6月26日1906年(明治39年)1月29日
3末弘直方1906年(明治39年)5月25日1912年(明治45年)5月24日
4龍岡信熊1912年(大正元年)9月27日1916年(大正5年)9月26日
5田中武雄1916年(大正5年)12月28日1918年(大正7年)2月27日死去
6小浜松次郎1918年(大正7年)7月22日1921年(大正10年)1月12日
7新妻駒五郎1921年(大正10年)7月18日1925年(大正14年)7月17日
8守永平助1925年(大正14年)11月13日1927年(昭和2年)4月11日
9神崎慶次郎1927年(昭和2年)6月14日1931年(昭和6年)6月15日
101931年(昭和6年)6月16日1933年(昭和8年)9月19日
11百済文輔1934年(昭和9年)3月21日1938年(昭和13年)3月20日
12嶋永太郎1938年(昭和13年)4月20日1942年(昭和17年)3月7日死去
13末松茂治1942年(昭和17年)5月27日1946年(昭和21年)1月25日
12浜田良祐1946年(昭和21年)7月4日1947年(昭和22年)3月20日
公選
13浜田良祐1947年(昭和22年)4月5日1951年(昭和26年)4月4日
141951年(昭和26年)4月23日1955年(昭和30年)5月1日
15林信雄1955年(昭和30年)5月2日1959年(昭和34年)5月1日
161959年(昭和34年)5月2日1963年(昭和38年)2月9日

国の機関 編集

1962年[3]

主な医療機関 編集

観光地・娯楽施設 編集

交通 編集

小倉は、九州と本州の接点の交通都市で、江戸時代の小倉城下には、長崎街道の始点に当たる常盤橋が設けられた。

小倉駅鹿児島本線日豊本線の結節点となっている。※合併前は山陽新幹線は未開通。道路においても、国道3号国道10号の分岐点にあたる。

九州自動車道では、小倉東IC小倉南ICが設けられている。小倉東ICと小倉南ICの間には、北九州JCTがあり、東九州自動車道の起点となっている。※ 合併前はいずれも未開通。

旧・北九州空港は小倉空港として1961年(昭和36年)より民間飛行場として供用が開始された。中心となる駅小倉駅

作品 編集

無法松の一生」の舞台である。7月末に開かれる小倉祇園太鼓は「太鼓祇園」の別名を持ち、坂本冬美の歌「あばれ太鼓」にも歌われている。

出身有名人 編集

※ 北九州市発足以前の誕生者

政財界・軍事
芸術家・文化人
芸能人
その他

脚注 編集

  1. ^ 長崎街道について”. 北九州市. 2024年4月10日閲覧。
  2. ^ 『北九州市史 近代・現代 行政社会』1068頁。
  3. ^ 『北九州市史 近代・現代 行政社会』809頁。
  4. ^ 『北九州市史 近代・現代 行政社会』990頁。
  5. ^ a b c 『北九州市史 近代・現代 行政社会』991頁。
  6. ^ a b 『北九州市史 近代・現代 行政社会』992頁。
  7. ^ サラリーマンに見えた暴力団トップ 交錯する素顔の裏に」『朝日新聞デジタル朝日新聞社、2021年8月19日。2021年8月25日閲覧。オリジナルの2021年8月25日時点におけるアーカイブ。

参考文献 編集

  • 北九州市史編さん委員会編『北九州市史 近代・現代 行政社会』北九州市、1987年

関連項目 編集

外部リンク 編集