上村 盛治(うえむら せいじ、1885年明治18年〉5月1日[1] - 1946年昭和21年〉4月9日[1])は、日本政治家尼崎市長(官選第2代)。

略歴・人物 編集

兵庫県川辺郡立花村大字東難波の大地主の家に生まれる。父は1883年明治16年)から1903年まで県会議員を務めた上村文三郎(立憲改進党[1][2]

明治大学旧制大学法学部卒業、大阪新報(のちに都新聞と合併[3]記者や立花村会、尼崎市会、兵庫県会の議員を経て[1]1922年大正11年)6月23日、尼崎市長に就任。全国で最年少市長だった[1]1928年昭和3年)1月22日まで務めた。

県立尼崎高校の生みの親 編集

任期中に、尼崎市への県立中学校(旧制)設置の要望が高まったため、1916年(大正5年)に県に陳情したが財政難を理由に拒否されたため、上村が中心となり市立で中学校を建設する市民運動を始めた。市内で運送業を営む佐古寛一(のちの日本通運取締役)らが「芝居」を興業して資金も調達、市民ら649名の寄付をもとに1923年、待望の尼崎市立尼崎中学校が創立した(現・兵庫県立尼崎高等学校[4])。

但馬棄民発言 編集

上村は1918年の北但大水害に際して県会で、復旧・復興に費用を投じるのは徒労なので被災者を「朝鮮若くは北海道に」移住させる方がよいという旨の提案をした[5]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 上村盛治 - apedia”. Web版尼崎地域史事典『apedia』. 2020年11月18日閲覧。
  2. ^ 『人事興信録』8版
  3. ^ 大阪新報とは - コトバンク”. コトバンク. 2020年11月18日閲覧。
  4. ^ 県尼の歩み 銅板の由来”. 兵庫県立尼崎高等学校. 2020年11月18日閲覧。
  5. ^ 『兵庫県の百年』p.129、「但馬切捨論と北但大震災」

外部リンク 編集

公職
先代
桜井忠剛
兵庫県尼崎市長
1922年 - 1928年
次代
桜井忠剛