ラモン・ディアス

アルゼンチンのサッカー選手

ラモン・アンヘル・ディアス(Ramón Ángel Díaz, スペイン語発音: [raˈmon ˈaŋxel ˈdi.as]1959年8月29日 - )は、アルゼンチンラ・リオハ州ラ・リオハ出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード。元アルゼンチン代表。現在はCRヴァスコ・ダ・ガマの監督を務める。

ラモン・ディアス
2016年
名前
本名ラモン・アンヘル・ディアス
Ramón Ángel Díaz
愛称エル・ペラード(ハゲ)
ラテン文字Ramón Díaz
基本情報
国籍アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 (1959-08-29) 1959年8月29日(64歳)
出身地ラ・リオハ州ラ・リオハ
身長172cm
体重68kg
選手情報
ポジションFW
利き足左足
クラブ1
クラブ出場(得点)
1978-1982アルゼンチンの旗 CAリーベル・プレート 123 (57)
1982-1983イタリアの旗 SSCナポリ 25 (3)
1983-1986イタリアの旗 USアヴェッリーノ 78 (22)
1986-1988イタリアの旗 ACFフィオレンティーナ 53 (17)
1988-1989イタリアの旗 インテルナツィオナーレ・ミラノ 33 (12)
1989-1991モナコの旗 ASモナコ 60 (24)
1991-1993アルゼンチンの旗 CAリーベル・プレート 52 (27)
1993-1995日本の旗 横浜マリノス 75 (52)
通算499 (214)
代表歴
1978-1979 アルゼンチン U-206 (8)
1979-1982アルゼンチンの旗 アルゼンチン22 (10)
監督歴
1995-1999アルゼンチンの旗 CAリーベル・プレート
2001-2002アルゼンチンの旗 CAリーベル・プレート
2004-2005イングランドの旗 オックスフォード・ユナイテッドFC
2007-2008アルゼンチンの旗 CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ
2008-2009メキシコの旗 クルブ・アメリカ
2010-2011アルゼンチンの旗 CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ
2011-2012アルゼンチンの旗 CAインデペンディエンテ
2012-2014アルゼンチンの旗 CAリーベル・プレート
2014-2016パラグアイの旗 パラグアイ
2016-2018サウジアラビアの旗 アル・ヒラル
2018サウジアラビアの旗 アル・イテハド
2019エジプトの旗 ピラミッドFC
2020パラグアイの旗 クルブ・リベルタ
2020ブラジルの旗 ボタフォゴFR
2021-2022アラブ首長国連邦の旗 アル・ナスルSC
2022-2023サウジアラビアの旗 アル・ヒラル
2023-ブラジルの旗 CRヴァスコ・ダ・ガマ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

選手時代経歴 編集

初期経歴 編集

父親はCAリーベル・プレートのファンで、リーベルのストライカーアンヘル・ラブルナにちなんで、アンヘルと名付けられた[1]。リーベルのユースを経て、1978年にトップに昇格、8月13日のCAコロン戦でデビュー[1]。1週間後のキルメスAC戦で初ゴールを挙げた[1]。1979年に初めてリーグ優勝を経験した[1]。リーベルでの4年間で、202試合で61得点を挙げた[1]

1979年、U-20アルゼンチン代表の一員として出場したワールドユース選手権では、アルジェリア戦でハットトリック、準決勝のウルグアイ戦で1ゴール、決勝でも1ゴールを挙げ、大会得点王に輝いた[1]。最優秀選手に選ばれたディエゴ・マラドーナと共にチームを優勝に導く立役者となる。この活躍が認められ、翌1979年9月12日の西ドイツ戦でフル代表デビューを果たし、1980年12月16日スイス戦でフル代表初ゴールを決めた[2]

1982年にはスペインで行われたワールドカップにも出場、ブラジル戦ではゴールを記録[1]。しかし、マラドーナの退場などによりこの試合に敗れ、チームは2次リーグで姿を消すこととなった。その後も、ヨーロッパの舞台で高いレベルのプレーを続けていたが、これがディアスの最後の代表戦となった[1]。代表の決定力不足が指摘され、ディアスの復帰要望が国民から出たこともあったが、結局復帰することはなかった。当時のアルゼンチン代表は、マラドーナを中心としたチームづくりを行っていたため、確執のあったディアスが外されたという説も根強いが、マラドーナは著書でそのことを否定、逆に1986年大会、1990年大会のメンバーに呼ぶべきだと代表監督に主張したとしている[3][4]。1990年のワールドカップメンバーに入れるか、カルロス・ビラルド監督が真剣に検討していたともされる[1]

ヨーロッパでのプレー 編集

1982年、オマール・シボリSSCナポリの会長に獲得を勧めとこともあり、ナポリへ移籍した[1]。1982年9月26日USカタンザーロ戦でセリエA初ゴールを決めた[1]。イタリアでの初めてのシーズン年間38試合で8ゴールに終わるなど、いい結果を残せず、1983-84シーズンはUSアヴェッリーノに貸し出され[1]、マラドーナと入れ替わる様にナポリを離れた。アヴェッリーノでは、1985-86シーズンにリーグ戦のみで10ゴールを挙げたが[1]、チームの経済状態の悪さから、1986年、ACFフィオレンティーナに移籍することとなった[1]。そのシーズン、再びリーグ戦で二桁ゴールを挙げた[1]

1988-89シーズン、インテルナツィオナーレ・ミラノに移籍、ローター・マテウスアンドレアス・ブレーメらとともにプレー、特にアルド・セレーナと優れた関係性のツートップを形成した[1]。セレーナは得点王を、ディアス自身は12得点を決め[5] 、チーム8年ぶりのスクデット獲得に貢献[3]。しかし、十分活躍しながらも、翌シーズンからユルゲン・クリンスマンが加入することになると、チームから放出された[1]

1989-90シーズン、フィオレンティーナが複帰へ向けて動いていたが、アーセン・ベンゲル率いるASモナコに移籍した[1]。9月22日のFCジロンダン・ボルドー戦で移籍後初ゴールを含む2ゴールを決めるなど[6]、15ゴールを決め、得点ランキング5位となった。1990-91シーズンのクープ・ドゥ・フランス決勝、オリンピック・マルセイユ戦では途中出場からジェラール・パシのゴールをアシスト[6] 、1-0と破り優勝に貢献した[3]

母国復帰 編集

1991年からはアルゼンチンの古巣CAリーベル・プレートに復帰、20ゴールを決め、リーグ得点王を獲得し、リーグ優勝に貢献した。

Jリーグ横浜マリノスでの活躍 編集

1993年に開幕したJリーグにおいて、横浜マリノスに在籍。同年のJリーグ開幕戦となったヴェルディ川崎戦で決勝ゴールを決めた[7]。6月26日のジェフユナイテッド市原戦、6月30日の浦和レッドダイヤモンズ戦と、Jリーグで初めて2試合連続ハットトリックを決め、12月8日の横浜フリューゲルス戦でもハットトリックを決めるなど[8]、32試合で28ゴールを挙げ、Jリーグ初代得点王、Jリーグベストイレブンに輝いた。2年目の1994年も主力として4月13日名古屋グランパスエイト戦でハットトリックを決めるなど、年間23ゴールを決める活躍をした。

1995年、ホルヘ・ソラーリ新監督と対立し、6試合に出場したのみでチームを退団、そのまま現役を引退することとなった[9]。4月12日の浦和レッドダイヤモンズ戦で決めたゴールは[10]、現役最後のゴールとなった。Jリーグでは在籍中、通算4回のハットトリックを達成した[8]

2019年、横浜F・マリノスが約15年振りにJ1優勝を果たすと、自身のSNS上で古巣を祝福した[11]

指導者経歴 編集

引退後にはCAリーベル・プレートの監督に就任、エンソ・フランチェスコリアリエル・オルテガらと共にリーグ優勝だけでなく、1996年にリーベルに10年ぶりとなるコパ・リベルタドーレス優勝、1997年にはスーペルコパ・スダメリカーナ優勝をもたらした[3]。ホルヘ・ソラーリとはウマが合わなかったディアスだが、ホルヘの甥であるサンティアゴ・ソラーリをデビューさせた。

2014年12月4日、パラグアイ代表の監督に就任した[12]。2016年に就任したアル・ヒラルでは、国内リーグと国王杯で優勝、2017年のAFCチャンピオンズリーグではチームを決勝に導いたが決勝で浦和レッドダイヤモンズに敗れた。

2020年11月6日、ボタフォゴFRの監督に就任。だが健康上の問題により、1試合も指揮を執ることなく11月27日に退任した[13]

2021年、アル・ヒラルの監督に復帰。AFCチャンピオンズリーグ2022では決勝に進出するも、またも浦和に敗れ準優勝となり、直後に監督を解任された[14]

2023年7月、ブラジルのCRヴァスコ・ダ・ガマの監督に就任した[15]

人物 編集

利き足の左足でのシュートを得意とし、ほとんどのゴールを左足で決めた[16]

ディエゴ・マラドーナとの仲について、1993年のインタビューでは、「犬猿の仲と言われるが、あながち間違いではない、ただ、変に対抗意識を持っているのはマラドーナの方で、出来るだけ自分に会わないようにしていて、同じイタリアでプレーしていた時も挨拶すら交わしたことはなかった。自分はマラドーナに対して特に悪い感情を持っている訳ではない、自分とは比べられない程のスターであるのだから自分に対して対抗意識を持つ必要はないのだが。」と語っていた[17]

アルゼンチンの大統領であったカルロス・メネムとは出身地が同じで親友であった[17]

個人成績 編集

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点出場得点出場得点 出場得点
アルゼンチンリーグ戦 リーグ杯アルヘンティーナ杯期間通算
1978-79リーベル・プレートプリメーラ208
1979-804323
1980-814322
1981-82174
イタリアリーグ戦 イタリア杯オープン杯期間通算
1982-83ナポリセリエA253
1983-84アヴェッリーノ247
1984-85275
1985-862710
1986-87フィオレンティーナ2910
1987-88247
1988-89インテル・ミラノ3312
フランスリーグ戦 F・リーグ杯フランス杯期間通算
1989-90モナコディヴィジョン・アン2815
1990-91329
アルゼンチンリーグ戦 リーグ杯アルヘンティーナ杯期間通算
1991-92リーベル・プレートプリメーラ3120
1992-93217
日本リーグ戦 リーグ杯天皇杯期間通算
1993横浜M-J322853304031
1994372331434427
199561--61
通算アルゼンチンプリメーラ17584
イタリアセリエA18954
フランスディヴィジョン・アン6034
日本J755284739059
総通算499224

代表歴 編集

タイトル 編集

選手として 編集

クラブ 編集

リーベル・プレート
インテル・ミラノ
モナコ

代表 編集

U-20アルゼンチン代表

個人 編集

指導者として 編集

リーベル・プレート
サン・ロレンソ
  • プリメーラ・ディビシオン : 2006-07C
アル・ヒラル

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s Ramón Angel Díaz, 'El puntero triste': bomber implacabile e allenatore di successo”. GOAL (2022年3月25日). 2023年7月29日閲覧。
  2. ^ Ramon Diaz player profile-transfermarkt
  3. ^ a b c d Ramon Diaz: Globe-trotting thoroughbred commits to Oxford cause”. Independent.co.uk. 2018年3月3日閲覧。
  4. ^ Ramon Angel Diaz”. Ramon Diaz.com. 2018年3月3日閲覧。
  5. ^ Gianni Mura (30 maggio 1989). “7,5 a Berti (escluso il look)”. la Repubblica. http://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/1989/05/30/berti-escluso-il-look.html 30 ottobre 2016閲覧。 
  6. ^ a b “Ramon Diaz AS Monaco”. www.transfermarkt.com. https://www.transfermarkt.com/ramon-diaz/leistungsdatendetails/spieler/112591/plus/0?saison=&verein=162&liga=&wettbewerb=&pos=&trainer_id= 2020年8月20日閲覧。 
  7. ^ Jリーグ開幕から25年…記念すべき第1節を写真と動画で振り返る-サッカーキング編集部 2017.5.15
  8. ^ a b ハットトリック一覧-Jleague Data site 2018年2月10日
  9. ^ [https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2020/03/27/___split_45/index.php ラモン・ディアスのシュートが、わかっていても止められなかった理由]-Sportiva
  10. ^ “’95Jリーグサントリーシリーズ 第8節第1日”. j-league. https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=1244 2020年4月17日閲覧。 
  11. ^ “「日本人はインテリジェント」J初代得点王が語った日本サッカーの未来――あの助っ人たちの“いま”【ラモン・ディアス】”. j-league. https://www.soccerdigestweb.com/news/detail2/id=81475 2020年11月3日閲覧。 
  12. ^ サッカーキング (2014年12月5日). “Jリーグ初代得点王のラモン・ディアス氏、パラグアイ代表監督就任”. 2014年12月5日閲覧。
  13. ^ フットボールチャンネル (2020年11月28日). “本田圭佑所属ボタフォゴ、Jリーグ初代得点王の監督が一度も指揮を執らず退任”. 2020年11月28日閲覧。
  14. ^ アル・ヒラルの前監督ラモン・ディアス氏、ブラジル2部で指揮へ…契約前から練習に参加? - 超WORLDサッカー!・2023年7月15日
  15. ^ J初代得点王のラモン・ディアスがブラジルの名門率いて手腕を発揮! ヴァスコ・ダ・ガマが降格圏から急浮上 - SOCCER KING・2023年9月27日
  16. ^ “ラモン・ディアスのシュートが、わかっていても止められなかった理由”. web Sportiva. (2020年3月27日). https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2020/03/27/___split_45/ 2024年4月14日閲覧。 
  17. ^ a b サッカーダイジェスト 1993年5月1日 P.36-37

外部リンク 編集