クリスチャン・サロン
クリスチャン・サロン(Christian Sarron 、1955年3月27日[1] - )は、フランス、クレルモン=フェラン出身の元オートバイ・ロードレースライダー。1984年ロードレース世界選手権250ccチャンピオン。1985年から1990年までの6シーズンでGP500通算1勝を記録した。1988年には最多連続ポールポジション(5回・当時)が記録されている。弟のドミニク・サロンもGP250及び500でトップライダーとして活躍した。ソノート・ヤマハ時代のメインスポンサーは、フランス産タバコのゴロワーズ。1986年当時は、身長174cm、体重63kg[1]。
クリスチャン・サロン | |
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1989年日本GPにて(後ろの#7は実弟のドミニク) | |
グランプリでの経歴 | |
国籍 | フランス |
活動期間 | 1976年 - 1990年 |
チーム | ヤマハ |
レース数 | 148 |
チャンピオン | 1 (250cc - 1984年) |
優勝回数 | 7 |
表彰台回数 | 37 |
ポールポジション回数 | 11 |
ファステストラップ回数 | 10 |
初グランプリ | 1976年 (350cc) ドイツGP |
初勝利 | 1977年 (250cc) ドイツGP |
最終勝利 | 1985年 (500cc) ドイツGP |
最終グランプリ | 1990年 (500cc) オーストラリアGP |
スタイル 編集
ハングオンでコーナリングするライダーがほとんどの中、1986年の500ccクラスでは唯一リーンウィズで走っていた[1]。上半身を深く丸め込み、常に低い姿勢でコーナリングする[1]。腕はタンクを抱え込むようにハンドに沿え、外脚はマシンと平行、やや下向きで内側に入れられる[1]。内足はつま先立ち[1]。
深いバンク角から前後タイヤを同時に滑らせるドリフトが得意で、これは高速コーナーで有利だった[1]。当時主流だったパワースライド[注釈 1]を使わない点でも特異なスタイルであった[1]。
たびたびスーパーラップを記録したが、度重なる転倒と負傷により500ccでは1勝を記録するに留まった。現代であればむしろこのライディングが通用したであろうという点では、狭間の時代に生まれた悲運のライダーといえる。しかしその流麗かつ鋭利なコーナリングには熱狂的なファンが存在した。
経歴 編集
1970年代にレースキャリアをスタート。1984年にはフランスヤマハよりGP250ccチャンピオン[1]に輝く。その後1985年には500ccにコンバート[1]し、時折フレディ・スペンサーを脅かす速さを見せ付けつつ、西ドイツGPにてGP500ccクラス初優勝。レインコンディションを得意とするサロンらしい勝利であった。しかしこの優勝が500ccキャリア唯一のものとなる。
以降、時折きらりと光る速さを見せながらも転倒を繰り返し、肉体的ダメージを蓄積していったことによりシーズンを通しての速さを取り戻すことなく1990年をもって現役引退。ランキングは1985年[1]および1989年の3位が最高であった。
エピソード 編集
- 穏やかで優雅なイメージとは裏腹に、ワイン・ガードナーとともにとんでもない悪戯をすることで有名。ガードナー自身の自伝において詳しい(単にガードナーに巻き込まれているという説もある)。
- GP500での不安定なイメージが強いが、ル・マン24時間レースやボルドール24時間耐久レースなどの耐久レースにもめっぽう強い。永井康友が優勝した際のペアライダーでもある。
- 平忠彦とペアを組んで出場した1986年の鈴鹿8時間耐久ロードレースではリタイアを喫している。互いのセッティングの好みにはかなりの開きがあり、なかでも互いが好むシフトパターンが異なっていたことは大きな問題であった[注釈 2]。結局シフトパターンの問題は妥協点を見出せず、決勝レースではピットクルーはライダーチェンジの度にシフトパターンを変更した。その平とは、引退後の1996年の8耐において再びペアを組んでTRX850を駆り、10年越しの完走を果たしている。
- スタート時の押しがけ(1987年よりクラッチスタート)が苦手であり、予選での好ポジションをスタート時に失ってしまいレースで取り返すという展開が多く見られた。マシン右側(一般的には左側)から押す姿もトレードマークであった。
戦績 編集
順位 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
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ポイント | 15 | 12 | 10 | 8 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 |
順位 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
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ポイント | 20 | 17 | 15 | 13 | 11 | 10 | 9 | 8 | 7 | 6 | 5 | 4 | 3 | 2 | 1 |
(key) (太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)
- 1983年 - ロードレース世界選手権250cc ランキング2位(ソノート・ヤマハ/TZ250)
- 1984年 - ロードレース世界選手権250cc チャンピオン(ソノート・ヤマハ/TZ250)
- 1985年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング3位1勝〔西ドイツ〕(ゴロワーズ・ソノート・ヤマハ/YZR500)
- 1986年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング6位(ゴロワーズ・ソノート・ヤマハ/YZR500)
- 1987年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング7位(ゴロワーズ・ソノート・ヤマハ/YZR500)
- 1988年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング4位(ゴロワーズ・ソノート・ヤマハ/YZR500)
- 1989年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング3位(ゴロワーズ・ソノート・ヤマハ/YZR500)
- 1990年 - ロードレース世界選手権500cc ランキング9位(ゴロワーズ・ソノート・ヤマハ/YZR500)
外部リンク 編集
注釈 編集
出典 編集
参考文献 編集
- 月刊『オートバイ』1986年6月別冊『1986世界のオートバイ特集』
タイトル | ||
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先代 カルロス・ラバード | WGP250cc チャンピオン 1984 | 次代 フレディ・スペンサー |