竹内 敬持(たけのうち たかもち、正徳2年(1712年) - 明和4年12月5日1767年1月24日))は、江戸時代中期の神道家、尊王論者。通称は竹内 式部(たけのうち しきぶ)。号は正庵・羞斎(しゅうさい)など。子に竹内主計がいる。

竹内 敬持
竹内式部像(新潟県新潟市西海岸公園内)
人物情報
別名通称:式部
号:正庵、羞斎
生誕正徳2年??月??日(1712年????日)
日本の旗 日本越後国
死没明和4年12月5日1767年1月24日
日本の旗 日本三宅島
国籍日本の旗 日本
両親父:竹内宗詮
子供竹内主計
学問
時代江戸時代中期
活動地域京都
学派崎門学派
研究分野朱子学
特筆すべき概念尊王論
主な業績垂加神道の継承
主要な作品『奉公心得書』
影響を受けた人物山崎闇斎
玉木正英
松岡仲良
影響を与えた人物徳大寺公城
二条宗基
主な受賞歴正四位
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経歴 編集

出生から上京後 編集

1712年(正徳2年)、越後に生まれる。医師竹内宗詮

1728年享保13年)頃に上京し、山崎闇斎門下の玉木正英松岡仲良に師事して、儒学垂加神道を学んだ[注 1]。しかし、学説上の対立があり、玉木が弟子である松岡を破門したことで、式部も破門されている[2][3]

家塾を開いて、若い公家たちに大義名分を重んじる垂加神道の講義を開始する。最盛期には700人ないし800人の弟子を有したとされ、そのうちの1人である徳大寺公城1745年延享2年)頃に召し抱えられたほか[2][3]摂家二条宗基も式部の教えを受けてその支援者となる[注 2]

京都追放 編集

しかし、式部の仏教排除の思想が、一条道香や天皇の嫡母青綺門院から反発を受ける[6][7]。とりわけ式部に対して不信感を抱いていた道香は[注 3]武家伝奏柳原光綱と共に、たびたび京都所司代に式部とその周辺について相談している[9][10]

やがて式部の教えを受けた徳大寺ら近習を中心とする若手公家と、道香を中心とする摂家の間で、朝廷の現状に対する認識の相異が顕在化する[11]。対立は次第に深刻化し、1758年宝暦8年)6月28日に所司代は式部を町預にして取調を開始するが、所司代が朝廷内部の争いに利用されることを警戒したことで本格的な捜査には至らず[12]、京都町奉行に拘束されたのは7月23日のことであった[13]。一条に代わって関白になっていた近衛内前は、「当面の措置」として竹内門弟の若手公家たちの謹慎を命じるが、彼らは天皇に対して「竹内の拘束やそれに伴う自分たちの謹慎は一条ら摂家の策謀である」とし、その排除を訴え始めた[14]。しかし、一条ら摂家が若手公家による摂家排除の企ての証拠を掴むと、7月24日桃園天皇に迫って近習ら若手公家の大量処分を断行された[15]

式部への処分は6月に京都所司代によって検討が開始されたが、その取り調べは難航していた。式部の罪状が定まったのは1759年(宝暦9年)5月のことであり、「堂上の公家には講義を求められてもことわるべきであった」「四書五経ではない浅見絅斎の著書『靖献遺言』を用いた」「全体的に教え方が良くなかった」という漠然とした罪状であった[16]。そうして5月7日、式部は重追放の処分を受けて京都および関八州、東海道などから追放された[16][17]

追放後からの死没 編集

その後、式部は伊勢国宇治に赴き[注 4]、同地に鎮座する神宮の神職らに講義するなど、それまでと変わらない活動を展開していた[18]。しかし、1766年(明和3年)、山県大弐らによる明和事件の際に関与を疑われ、式部は江戸に召喚された。山県との関係についての疑いは晴れたが、追放中の身でありながら京都に立ち入ったことが発覚し[19]、翌1767年(明和4年)に八丈島流罪となった式部は、その護送途中に三宅島で病没した[20]

没後 編集

1891年明治24年)12月に山県大弐や藤井右門と共に正四位が贈られ、翌1892年(明治25年)6月に上野公園にて贈位を祝福する祭典が行われた[21]

神社建立計画 編集

竹内式部の功績を評価し、「竹内神社」の建立に向けて動いている。それに伴う奉賛会の動きが具体化しているのは、1934年昭和9年)年に新潟市らが主催で、神社建立懇親会を開催した頃からである。

建立に伴う準備委員会が3回ほど実施され、1936年(昭和11年)年12月5日に旧新潟市役所にて、奉賛会発足会が挙行されている。しかし発足会挙行後、奉賛会の活動がわかる資料が発見されていないとされ、詳細は謎とされる。その影響もあり、一時期「竹内神社」建立の動きも停滞していった。

皇紀2600年事業に関連し、1939年(昭和14年)年に記念事業委員会上で、市会議長が竹内神社の建立を提案。また、護國神社の中への建設案を上申し了承される。内務省は竹内神社の建立に関しては賛成するも、護國神社と同一の場所に建立しないことや、竹内神社を建立する際は立派な形で建立することを条件として提示した。

しかし、戦時中における出費の膨大や、施設建設費の出費増及び警察官講演会基金等寄付金募集が氾濫し、竹内神社建立までに手が届かず、建立は幻に終わってしまった。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 同時期に学んだ者の中には、後に『日本書紀』の本格的な全巻注釈書『日本書紀通証』(35巻23冊、宝暦12年刊)の著者として知られる谷川士清がいた[1]
  2. ^ 宗基は1754年(宝暦4年)に急死してしまい、式部は大きな後ろ盾を失うことになる[4][5]
  3. ^ 一条兼香と親交のあった三宅尚斎に対し、式部が上下の分を憚らずに論争を起こしたことで、上下関係の秩序を重んじる兼香が式部の存在を危険視するようになり、道香もまたその認識を承けたとされる[8]
  4. ^ 潜居後の式部を手厚く庇護したのは、谷川士清の女婿で内宮権禰宜の蓬萊尚賢である[18]

出典 編集

  1. ^ 大貫大樹 (2023), p. 7(「竹内式部と宝暦事件研究の課題」- 本書の書き下ろし)
  2. ^ a b 林大樹 (2021), p. 250(「宝暦事件の基礎的考察」- 本書の書き下ろし)
  3. ^ a b 林大樹 (2021), p. 261(「宝暦事件の基礎的考察」- 本書の書き下ろし)
  4. ^ 林大樹 (2021), p. 276(「宝暦事件の基礎的考察」- 本書の書き下ろし)
  5. ^ 林大樹 (2021), p. 306(「宝暦事件の基礎的考察」- 本書の書き下ろし)
  6. ^ 林大樹 (2021), p. 232(「宝暦事件の基礎的考察」- 本書の書き下ろし)
  7. ^ 林大樹 (2021), p. 281(「宝暦事件の再検討」- 本書の書き下ろし)
  8. ^ 大貫大樹 (2023), pp. 442–443(「宝暦事件再考」- 本書の書き下ろし)
  9. ^ 林大樹 (2021), p. 278(「宝暦事件の再検討」- 本書の書き下ろし)
  10. ^ 林大樹 (2021), p. 280(「宝暦事件の再検討」- 本書の書き下ろし)
  11. ^ 大貫大樹 (2023), p. 461(「宝暦事件再考」- 本書の書き下ろし)
  12. ^ 林大樹 (2021), pp. 301–303(「宝暦事件の再検討」- 本書の書き下ろし)
  13. ^ 林大樹 (2021), p. 273(「宝暦事件の再検討」- 本書の書き下ろし)
  14. ^ 林大樹 (2021), pp. 303–306(「宝暦事件の再検討」- 本書の書き下ろし)
  15. ^ 林大樹 (2021), pp. 281–292(「宝暦事件の再検討」- 本書の書き下ろし)
  16. ^ a b 藤田覚, 2018 & Kindle版、位置No.全394中 177 / 47%.
  17. ^ 林大樹 (2021), p. 274(「宝暦事件の再検討」- 本書の書き下ろし)
  18. ^ a b 大貫大樹 (2023), p. 8(「竹内式部と宝暦事件研究の課題」- 本書の書き下ろし)
  19. ^ 藤田覚, 2018 & Kindle版、位置No.全394中 180/ 48%.
  20. ^ 新潟市歴史博物館『新潟・文人去来』新潟市歴史博物館、2007年。p. 6.
  21. ^ 山縣昌蔵編『追遠餘録』私家版、1892年。

参考文献 編集

  • 大貫大樹『竹内式部と宝暦事件』錦正社、2023年2月。ISBN 9784764601505 
  • 林大樹『天皇近臣と近世の朝廷』吉川弘文館、2021年1月。ISBN 9784642043335 

関連文献 編集

  • 松本丘『垂加神道の人々と日本書紀』弘文堂、2008年。ISBN 9784335160523
  • 『新潟の歴史を語る』第2号、新潟市郷土資料館、1996年
  • 『贈正四位竹内式部先生』竹内式部先生追想一掬会、出版年不明