松原良香

日本のサッカー選手、監督

松原 良香(まつばら よしか、1974年8月19日 - )は、静岡県浜松市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者、実業家。Jリーグ選手OB会副会長。元サッカー選手の松原真也は兄、サッカー選手の松原后は甥(真也の息子)。

松原 良香
名前
カタカナマツバラ ヨシカ
ラテン文字MATSUBARA Yoshika
基本情報
国籍日本の旗 日本
生年月日 (1974-08-19) 1974年8月19日(49歳)
出身地静岡県浜松市
身長179cm
体重74kg
選手情報
ポジションFW
ユース
日本の旗 東海大一高校
クラブ1
クラブ出場(得点)
1993ウルグアイの旗 ペニャロール ? (?)
1994-1998日本の旗 ジュビロ磐田 33 (10)
1996日本の旗 清水エスパルス (loan) 13 (3)
1997日本の旗 ジェフユナイテッド市原 (loan) 25 (8)
1999クロアチアの旗 リエカ 2 (0)
1999スイスの旗 ドレモン 5 (0)
2000日本の旗 湘南ベルマーレ 35 (12)
2001ウルグアイの旗 プログレッソ(?)
2001日本の旗 アビスパ福岡 (loan) 8 (0)
2002ウルグアイの旗 デフェンソール(?)
2003-2004日本の旗 沖縄かりゆしFC
2004-2005日本の旗 静岡FC
監督歴
2005日本の旗 静岡FC
2015日本の旗 SC相模原
2023日本の旗 いわてグルージャ盛岡
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

経歴

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プロ入り前

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プロサッカー選手となる3歳年上の兄・真也にあこがれ小学校3年生よりサッカーを始める。真也は高校2年生の時にアルゼンチンに渡り、プロ契約を果たした[1]。その影響を受け、自らもアルゼンチン行きを周囲に相談するが反対され断念。

東海大一高校の同学年には伊東輝悦白井博幸、1学年上には服部年宏岩下潤がいる[2]。高校卒業後、特待生として阪南大学に進んだが、3日間で辞めて静岡に戻る[3][2][4][5]。世代別日本代表コーチとして面識があったヤマハ発動機(のちのジュビロ磐田)の山本昌邦から連絡を受け、海外に挑戦することを勧められる[5]。帰国後はジュビロ磐田でプレーするという約束を交わした上で、山本に紹介されたウルグアイCAペニャロールにてプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせる[5]

プロ入り後

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CAペニャロールには1993年4月から12月まで在籍し、トップチームのひとつ下のカテゴリーに所属した[5]。帰国後は同年よりJリーグに参入したジュビロ磐田に加入。FWには中山雅史サルヴァトーレ・スキラッチがおり、松原はスーパーサブとして起用された[6]。1年目は18試合に出場し、チーム内ではスキラッチに次ぐ7ゴールを記録した[7]

1996年、28年ぶりの出場となったアトランタ五輪に出場するU23日本代表に選出。「マイアミの奇跡」として知られるブラジル戦に途中出場した他、ハンガリー戦にもスタメンで出場した。

磐田監督のハンス・オフトと折り合いが悪く[8]、1996年は清水エスパルス、1997年はジェフユナイテッド市原でプレー。1998年に磐田に復帰したが、1度も出場機会が訪れないままシーズンを終えた。

1999年はプルヴァHNL(クロアチア1部)のNKリエカに移籍[9]。チームメイトには財前宣之がいた。移籍にまつわる手続きに時間がかかり、実際に試合に出場できるようになったのは4月ごろからだった[9]。移籍先を探してスイスやドイツを転々とし[9][10][11]、10月にスイス・スーパーリーグ(スイス1部)のSRドレモンに加わり、年末まで在籍した[11]

2000年、日本に戻りJ2湘南ベルマーレに加入。前園真聖は「自分の年俸を削って構わない。だから松原を獲得してくれ」とクラブのフロントに懇願したと語る[12]。松原はこの年のリーグ戦でチーム最多の12点をあげた[13]

2001年、ウルグアイのCAプログレッソから1年間の期限付き移籍という形でアビスパ福岡に加入[14][15]

2002年には代理人からの紹介によりウルグアイのデフェンソール・スポルティングに渡ったが、すでに同クラブでは外国人枠が埋まっており登録できなかった[16]。同年後半はブラジルのクラブで練習に参加していた[16]

2003年、加藤久が監督を務める九州サッカーリーグ所属の沖縄かりゆしFCに加入、主将を任された[17]。メインスポンサーの撤退を受けて同クラブの全所属選手が退団するなか、松原も第28回全国地域リーグ決勝大会を間近に控えた2004年10月に静岡FCに移籍[17][18][19]。2005年は静岡FCで選手兼任監督を務めた[20]

引退後

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2005年にFELICEサッカースクールを開校[21]。2009年にFELICE MONDO株式会社、2017年に一般社団法人FELICEスポーツクラブを設立し、それらの代表を務めている[21]。現在Uー15は千葉県1部で奮闘中

2009年から2015年までは暁星国際学園アストラインターナショナルコースゼネラルマネージャーを務めた[21]

2015年11月、SC相模原の監督に就任した[22]J3リーグ残り3戦での監督就任で2勝1分けの好成績を残すも2015年シーズン限りで退任。

2016年4月より、筑波大学大学院人間総合科学研究科スポーツ健康システム・マネジメント専攻に在学し、2018年に体育学の修士学位を取得。2019年より吉備国際大学スポーツ社会学科の非常勤講師を、2022年より筑波大学大学院人間総合科学研究科の非常勤講師を務める。

2019年、大学院での研究論文をまとめた書籍「ストライカーを科学するーサッカーは南米に学べ!」を岩波書店より出版する。

2023年からは、いわてグルージャ盛岡の監督を務める[23]

2023年9月、成績不振の為、解任[24]

エピソード

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所属クラブ

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個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点出場得点出場得点 出場得点
ウルグアイリーグ戦 リーグ杯オープン杯期間通算
1993ペニャロールウルグアイリーグ
日本リーグ戦 リーグ杯天皇杯期間通算
1994磐田-J1870000187
1995153-20173
1996清水1333000163
1997市原925873203411
1998磐田2600000000
クロアチアリーグ戦 リーグ杯オープン杯期間通算
1998-99リエカプルヴァHNL20
スイスリーグ戦 スイス杯オープン杯期間通算
1999-00ドレモンスーパーリーグ50
日本リーグ戦 リーグ杯天皇杯期間通算
2000湘南17J2351221304013
ウルグアイリーグ戦 リーグ杯オープン杯期間通算
2001CAプログレッソウルグアイリーグ
日本リーグ戦 リーグ杯天皇杯期間通算
2001福岡37J1804000120
ウルグアイリーグ戦 リーグ杯オープン杯期間通算
2002デフェンソールウルグアイリーグ
日本リーグ戦 リーグ杯天皇杯期間通算
2003沖縄かりゆし9九州2011-212212
2004--
静岡FC東海1部-
2005-
通算ウルグアイウルグアイリーグ
日本J17921143409724
日本J2351221304013
日本東海1部-
日本九州-
クロアチアプルヴァHNL20
スイススーパーリーグ50
総通算

代表歴

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  • 1990年 U-17日本代表
  • 1993年 U-20日本代表
  • 1994年 U-21日本代表
  • 1995年 U-22日本代表
  • 1996年 U-23日本代表:アトランタ五輪代表

指導歴

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JFA公認ライセンス取得歴

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  • 2005年 JFA公認C級ライセンス取得
  • 2005年 JFA公認B級ライセンス取得
  • 2008年 JFA公認A級ライセンス取得
  • 2010年 JFA公認S級ライセンス取得
  • 2012年 JFA公認A級U-12ライセンス取得

メディア出演

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テレビ

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ラジオ

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コラム連載

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  • サッカー人
  • マノアマノ

講演実績

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  • ジュニア育成地域推進事業 品川区サッカージュニアユース強化教室
  • 港区 若年公務員対象 勉強会

出典

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  1. ^ 松原良香コラム「サッカー人」
  2. ^ a b 田崎健太 (2015年9月11日). “第95回 落ちこぼれ寸前の若き日々 〜松原良香Vol.3〜”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2018年10月1日閲覧。
  3. ^ 森 大樹 (2015年10月19日). ““奇跡”を経験した松原良香。セカンドキャリアはサッカーへ恩返しをするために。”. AZrena. 2018年10月1日閲覧。
  4. ^ 田崎健太 (2015年9月11日). “第95回 落ちこぼれ寸前の若き日々 〜松原良香Vol.3〜”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2018年10月1日閲覧。
  5. ^ a b c d 田崎健太 (2015年10月9日). “第96回 山本昌邦の導き 〜松原良香Vol.4〜”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2018年10月1日閲覧。
  6. ^ 田崎健太 (2015年11月13日). “第97回 スキラッチ、ドゥンガの凄さ 松原良香Vol.5”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2018年10月1日閲覧。
  7. ^ 田崎健太 (2015年12月11日). “第98回 世界を見据えた五輪予選 ~松原良香Vol.6~”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2018年10月1日閲覧。
  8. ^ 田崎健太 (2015年12月11日). “第98回 世界を見据えた五輪予選 ~松原良香Vol.6~”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2018年10月1日閲覧。
  9. ^ a b c 田崎健太 (2016年3月11日). “第101回 躓きの始まり ~松原良香Vol.9~”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2018年10月1日閲覧。
  10. ^ 田崎健太 (2016年4月8日). “第102回 代理人とのすれ違い ~松原良香Vol.10~”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2018年10月1日閲覧。
  11. ^ a b 田崎健太 (2016年5月13日). “第103回 移籍とはタイミングや巡り合わせ ~松原良香Vol.11~”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2018年10月1日閲覧。
  12. ^ “【前園連載20】「J2湘南はヤバイ」だから松原を推薦した”. 東スポweb. (2014年5月11日). https://web.archive.org/web/20140520143407/https://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/special/264708/ 2018年10月1日閲覧。 
  13. ^ 選手出場記録 湘南ベルマーレ 2000Jリーグ ディビジョン2”. Jリーグ. 2018年10月1日閲覧。
  14. ^ 新加入選手のお知らせ(2/21) - ウェイバックマシン(2001年10月20日アーカイブ分) アビスパ福岡 (2001年2月21日)
  15. ^ “FW松原「点取れる」 開幕スタメンも アビスパ入団会見 「DFに威圧感与えたい」”. 西日本スポーツ. (2001年2月23日). オリジナルの2004年12月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20041229153606/http://www.nishinippon.co.jp:80/nishispo/avispa/bn/01kiji/0102-2kiji.html#006 2018年10月1日閲覧。 
  16. ^ a b 田崎健太 (2015年7月10日). “第93回 ブラジルの小さなクラブでの出会い 〜松原良香Vol.1〜”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2018年10月1日閲覧。
  17. ^ a b スポンサー撤退説明なし 退団選手ら不満訴え かりゆしFC - ウェイバックマシン(2004年12月4日アーカイブ分) 琉球新報 (2004年9月14日)
  18. ^ 11人の移籍発表 沖縄かりゆしFC - ウェイバックマシン(2004年12月11日アーカイブ分) 琉球新報 (2004年10月31日)
  19. ^ 新加入選手11名の紹介 - ウェイバックマシン(2005年2月5日アーカイブ分) 静岡FC (2004年11月1日)
  20. ^ 田崎健太 (2016年10月14日). “第108回 順調だったセカンドキャリア…… ~松原良香Vol.16~”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2018年10月1日閲覧。
  21. ^ a b c FELICEについて”. 一般社団法人 FELICEスポーツクラブ. 2018年10月1日閲覧。
  22. ^ 辛島監督退任および松原新監督就任のお知らせ”. SC相模原 (2015年11月3日). 2016年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月3日閲覧。
  23. ^ 【チーム】松原良香氏 監督就任のお知らせ』(プレスリリース)いわてグルージャ盛岡、2022年11月3日http://grulla-morioka.jp/tab02_team/news221103-01/2022年11月3日閲覧 
  24. ^ 【チーム】松原良香 監督解任のお知らせ』(プレスリリース)いわてグルージャ盛岡、2023年9月20日https://grulla-morioka.jp/tab02_team/230920-01-2/2023年9月20日閲覧 
  25. ^ 松原良香コラム「サッカー人」第55回 ディエゴ・マラドーナさん
  26. ^ 松原良香コラム「サッカー人」第70回 松原真也さん
  27. ^ 松原良香 欧州サッカー探訪記~2つのファイナルを巡り歩く~

関連項目

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外部リンク

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