平野 (大阪市)

大阪府大阪市平野区の地区名
平野郷から転送)
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平野(ひらの)は、大阪府大阪市平野区の地区名。広義に坂上田村麿の子である坂上広野麿からひろのがなまってひらのと言う名称になったと言われていて平野区全体を指す場合もあるが、地区名としてはかつて環濠都市自治都市を形成していた平野郷町の本郷七町だった地区を指す。

平野
ひらの
日章旗 日本
地方近畿地方
都道府県大阪府
自治体大阪市
旧自治体平野郷町
大阪市役所平野区役所本庁
北緯34度37分16.18秒 東経135度32分45.6秒 / 北緯34.6211611度 東経135.546000度 / 34.6211611; 135.546000座標: 北緯34度37分16.18秒 東経135度32分45.6秒 / 北緯34.6211611度 東経135.546000度 / 34.6211611; 135.546000
所在地〒547-8580
大阪府大阪市平野区背戸口3丁目8番19号
平野の位置(大阪府内)
平野
平野
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本項では大阪市編入以前の東成郡平野郷町(ひらのごうちょう)についても述べる。

歴史 編集

摂津国住吉郡杭全郷の東部にあたり、難波京斑鳩平安京を結ぶ古代道路である渋川道(のちの竜田越奈良街道)が通っており、昔から交通の要所であった。後には中高野街道の起点にもなった。

平安時代初期に坂上田村麻呂の次男である坂上広野麻呂荘園があったことから、「平野」という地名は「広野」からの転訛によるといわれている。862年貞観4年)には広野麻呂の子の坂上当道八坂神社を勧請して杭全神社が創建されている。

広野麻呂の荘園はその後、摂関家九条家を通じて宇治平等院へ寄進され、織田信長の直轄地となるまでの約500年間は平等院領であった。荘園は杭全荘と呼ばれていたが、鎌倉時代頃から平野荘とも別称された。

1127年大治2年)に大念仏寺が開基されると、門前町が形成されるようになった。戦国時代になると、町の周りに二重の土居を巡らせ、13ヶ所の出入口にはと門番屋敷が設置された。なお、門の脇には地蔵堂も建てられ、12の地蔵堂が現存している。濠内は坂上氏の末裔と称する平野七名家による自治が行われるようになり、七名家が権力を有する以下の本郷七町に分かれていた。

織田信長が台頭すると、同じように環濠都市・自治都市であった会合衆から協力要請を受けるほどであったが、結局は信長に屈服した。豊臣秀吉が天下統一を果たすと、町の有力商人は大坂城下へ移住させられた。なお、移住先は徳川期には城下ではなく東成郡北平野町村・南平野町村となっていた所で、現在の中央区東平上汐および天王寺区上汐などに当たる。大坂の陣では七名家の筆頭ともいえる末吉氏が徳川方に尽力し、平野に徳川秀忠が設けられた。

1615年元和元年)、末吉氏は平野および河内国志紀郡河内郡代官に任ぜられ、大坂の陣で灰燼に帰した平野の復興を行い、環濠も再度掘り直された。さらに、度重なる洪水に見舞われた志紀郡柏原村の復興の一環として、1636年寛永13年)に柏原村と大坂城下を結ぶ柏原舟が平野の環濠と連結する平野川に通うようになった。平野は1671年寛文11年)には馬継場にも指定されて水運・陸運双方の恩恵を受けるようになり、河内木綿の集散地として発展した。

1702年元禄15年)、本郷七町とその西方に位置する今林村・新在家村・今在家村・中野村の散郷四村を統合して平野郷町となり、野堂町に惣会所が設置された。1708年宝永5年)には鎌倉時代に始まったとされる杭全神社の連歌所が再建され、1717年享保2年)には郷学含翠堂が開設された。

1879年明治12年)に散郷四村が分離し、1883年(明治16年)には本郷七町もそれぞれ平野を冠称して分離したが、1889年(明治22年)の町村制施行時に本郷七町が合併して自治体としての平野郷町が発足した。なお、散郷四村は今林村・新在家村・今在家村が桑津村と合併して北百済村、中野村が砂子村・鷹合村・湯谷島村と合併して南百済村の各一部となった。

1925年大正14年)に大阪市へ編入。1927年昭和2年)、平野流町に大阪府女子師範学校が新設移転。

1934年(昭和9年)9月21日室戸台風による暴風雨。平野小学校の木造校舎が強風により倒壊するなどして多数の死傷者が出た[1]

1930年(昭和5年)から土地区画整理事業を開始して平野郷の周囲も宅地化されていき、かつての面影は少なくなっていった。環濠の大半は埋め立てられ、杭全神社近辺に200m程度しか残っていない。1999年(平成11年)から大阪市のHOPEゾーン事業によって平野郷の景観復元や文化保存などの取り組みが行われた。

自治体としての沿革 編集

ひらのごうちょう
平野郷町
廃止日1925年4月1日
廃止理由編入合併
天王寺村平野郷町喜連村北百済村南百済村田辺町依羅村長居村墨江村住吉村安立町敷津村大阪市住吉区
現在の自治体大阪市
廃止時点のデータ
日本
地方近畿地方
都道府県大阪府
東成郡
市町村コードなし(導入前に廃止)
総人口14,531
国勢調査1920年
隣接自治体東成郡北百済村、南百済村、喜連村
中河内郡巽村加美村龍華村
平野郷町役場
所在地大阪府東成郡平野郷町宮町
座標北緯34度37分16.2秒 東経135度32分45.6秒 / 北緯34.621167度 東経135.546000度 / 34.621167; 135.546000 (平野郷町)
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  • 1889年明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、住吉郡平野馬場町、平野泥堂町、平野市町、平野野堂町、平野流町、平野背戸口町、平野西脇町が合併して平野郷町が発足。大字平野野堂に町役場を設置。
  • 1896年(明治29年)4月1日 - の統廃合により、所属郡が東成郡に変更。
  • 1922年大正11年) - 中心部に以下の町名が起立。
    • 住吉町
    • 中町
    • 上町
    • 元町(1 - 7丁目)
    • 宮町
    • 浜町(1 - 3丁目)
    • 京町(1 - 6丁目)
    • 新町(1 - 6丁目)
    • 本町(1 - 6丁目)
    • 三十歩町(1 - 3丁目)
    • 梅ケ枝町(1 - 6丁目)
    • 政所町(1 - 5丁目)
    • 田畑町
  • 1925年(大正14年)4月1日 - 大阪市第2次市域拡張により、新設の住吉区に編入される。同日平野郷町廃止。
  • 1930年昭和5年) - 北西部に平野西之町・平野大通の町名が起立。
  • 1943年(昭和18年)4月1日 - 住吉区から東住吉区が分区。同区の一部となる。
  • 1974年(昭和49年)7月22日 - 東住吉区から平野区が分区。同区の一部となる。新区名は投票の結果1票差で「平野区」が「大和川区」を上回り、新区名に決定した。

地域 編集

1978年(昭和53年)実施の現行住所表記では以下の町名が概ね該当する。

全興寺を中心とする「平野中央通商店街」周辺は、太平洋戦争時に空襲を逃れたこともあり、古い町並みの面影が現在も残っている。

河川 編集

  • 平野川 - 当地の北東地域を流れる。かつては水運に用いられてきたが、現在は典型的な掘り込み河川である。

交通 編集

1927年、大阪市営バスが最初の路線として平野〜あべの橋間で開業。その後、大阪市営バスからバス事業を引き継いだ大阪シティバスの多くの路線が走り、あべの橋、地下鉄住之江公園なんばなどと結ばれている。近鉄バスは近鉄布施駅前〜JR平野駅前間で運行されていたが JRおおさか東線の開業による乗客の大幅な減少のため2018年12月をもって平野駅前〜加美小学校前間が休止されている。かつては平野〜松原方面などを結ぶ路線も開設されていた。

寺社旧跡 編集

祭事・文化 編集

平野郷夏祭りで曳行される地車(流町)
  • 万部おねり

5月1日から5日まで大念仏寺で万部おねりが行われる。

  • 平野郷夏祭り

毎年7月には杭全神社の夏祭りが開催される。特に、毎年7月12・13日に平野郷の9町(本郷七町のひとつである野堂町が東・南・北に分かれるため9町になる)の地車だんじり)が曳行する平野郷夏祭りは、大阪市内で最大規模の地車祭りであり、30万人を超えるとも言われる大勢の人出で賑わう。祭りのハイライトは13日夕刻から深夜にかけての「宮入(みやいり)」である。9台の地車が平野郷南縁の南港通から流口へ折れ、平野郷の中心部を通るお渡り筋(流門筋)、奈良街道(泥堂筋)を経て、杭全神社へと入っていく。最大の見せ場は杭全神社鳥居前の国道25号「宮前」交差点で行われる猛スピードでの地車曳行、各町工夫を凝らした演出などのパフォーマンスである。

また、12日夜に南港通地下鉄平野駅付近〜平野本町5丁目交差点付近)の片側車線を封鎖して9台の地車が集結する「九町合同曳行」も見せ場のひとつである。尚、本祭りは14日で、神事として神輿渡御し、太鼓台ふとん太鼓)が神輿を先導する。2020年2021年は新型コロナウイルス感染症の流行に鑑み開催が見送られていたが、2022年は例年通り開催された。


  • 盆踊り

平野では河内音頭の一流派である平野節の初音家一門の発祥の地であることから、毎年夏季には平野公園(旧松山公園)のグランドにてが組まれ、初音家一座を招いて盛大に盆踊りが執り行われる(平野公園内には、近代河内音頭発祥の石碑がある)。

脚注 編集

  1. ^ 学校倒壊百四十三、学童死傷二千四百人『大阪毎日新聞』昭和9年9月22日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p230 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

関連項目 編集

外部リンク 編集