平沼内閣

日本の内閣

平沼内閣(ひらぬまないかく)は、枢密院議長平沼騏一郎が第35代内閣総理大臣に任命され、1939年昭和14年)1月5日から1939年(昭和14年)8月30日まで続いた日本の内閣

平沼内閣
総理官邸で撮影に臨む閣僚
内閣総理大臣第35代 平沼騏一郎
成立年月日1939年昭和14年)1月5日
終了年月日1939年(昭和14年)8月30日
与党・支持基盤挙国一致内閣
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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閣僚の顔ぶれ・人事 編集

国務大臣 編集

1939年(昭和14年)1月5日任命[1]。在職日数238日。

職名氏名出身等特命事項等備考
内閣総理大臣35平沼騏一郎 貴族院
無所属
(無会派)
男爵
枢密顧問官
外務大臣52有田八郎 貴族院
無所属
(無会派)
留任
内務大臣51木戸幸一 貴族院
無所属
火曜会
侯爵
大蔵大臣39石渡荘太郎 大蔵省初入閣
陸軍大臣27板垣征四郎 陸軍中将
陸大28期
対満事務局総裁兼任留任
海軍大臣19米内光政 海軍大将
海大甲種12期
留任
司法大臣38塩野季彦 司法省逓信大臣兼任留任
文部大臣49荒木貞夫 予備役陸軍大将
男爵
留任
農林大臣13櫻内幸雄 衆議院
立憲民政党
商工大臣17八田嘉明 貴族院
無所属
研究会
拓務大臣兼任
逓信大臣43塩野季彦 司法省司法大臣兼任1939年4月7日免兼[2]
44田辺治通 逓信省初入閣
1939年4月7日任[2]
鉄道大臣16前田米蔵 衆議院
立憲政友会
拓務大臣14八田嘉明 貴族院
無所属
(研究会)
商工大臣兼任留任
1939年4月7日免兼[2]
15小磯國昭 予備役陸軍大将
陸大22期
初入閣
1939年4月7日任[2]
厚生大臣2広瀬久忠 内務省初入閣
班列-近衛文麿 貴族院
無所属
火曜会
公爵
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

内閣書記官長・法制局長官 編集

1939年(昭和14年)1月5日任命[1]

職名氏名出身等特命事項等備考
内閣書記官長40田辺治通 逓信省1939年4月7日免[3]
41太田耕造 民間[注釈 1]1939年4月7日任[3]
法制局長官38黒崎定三 貴族院
無所属
(研究会)
  1. 辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。
  2. 臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。
  3. 代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。

政務次官 編集

1939年(昭和14年)1月19日任命[4]

職名氏名出身等備考
外務政務次官清水留三郎衆議院/立憲民政党
内務政務次官漢那憲和衆議院/立憲民政党/予備役海軍少将(海大甲種9期
大蔵政務次官松村光三衆議院/立憲政友会
陸軍政務次官西村茂生衆議院/立憲政友会
海軍政務次官松田竹千代衆議院/立憲民政党
司法政務次官倉元要一衆議院/立憲政友会
文部政務次官小柳牧衛衆議院/立憲民政党
農林政務次官松村謙三衆議院/立憲民政党
商工政務次官今井健彦衆議院/立憲政友会
逓信政務次官平川松太郎衆議院/立憲民政党
鉄道政務次官工藤十三雄衆議院/立憲政友会
拓務政務次官寺田市正衆議院/立憲政友会
厚生政務次官津崎尚武衆議院/立憲政友会

参与官 編集

1939年(昭和14年)1月19日任命[4]

職名氏名出身等備考
外務参与官箸本太吉衆議院/立憲政友会
内務参与官中井一夫衆議院/立憲政友会
大蔵参与官矢野庄太郎衆議院/立憲民政党
陸軍参与官中井川浩衆議院/立憲民政党
海軍参与官中原謹司衆議院/立憲民政党
司法参与官浜野徹太郎衆議院/立憲民政党
文部参与官野中徹也衆議院/国民同盟
農林参与官林譲治衆議院/立憲政友会
商工参与官沢田利吉衆議院/立憲民政党
逓信参与官上田孝吉衆議院/立憲政友会
鉄道参与官青木亮貫衆議院/立憲民政党
拓務参与官江藤源九郎衆議院/日本革新党/予備役陸軍少将陸士11期
厚生参与官綾部健太郎衆議院/立憲政友会

勢力早見表 編集

※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

出身国務大臣政務次官参与官その他
りつけんせいゆうかい立憲政友会175
りつけんみんせいとう立憲民政党166
こくみんとうめい国民同盟001
しようわかい日本革新党001
けんきゆうかい研究会200法制局長官
かようかい火曜会200
むしよそく無所属200
くんふ軍部300
かんりよう官僚300内閣書記官長
国務大臣のべ4
141313国務大臣のべ15

内閣の動き 編集

前の第1次近衛内閣の崩壊を受けて、枢密院議長の平沼騏一郎が組閣した。共産主義に対抗する枢軸としてドイツとの関係強化をしようとしていたが、昭和14年(1939年)8月23日ドイツナチス・ドイツ)が突然ソビエト連邦独ソ不可侵条約を締結したことを受けて平沼首相は8月28日にいわゆる「複雑怪奇」声明を残して内閣総辞職した。

今回帰結せられたる独ソ不侵略条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので、我が方は之に鑑み従来準備し来った政策は之を打切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至りました

というような談話を発表した[注釈 2][注釈 3][注釈 4]

この談話は当時の日本外交の国際認識の欠如を象徴的に示している。当時の読売新聞社説は「外交政策を樹直さねば〔ママ〕ならなくなった点につき責任をとったもの」と見なし、「ドイツの不信行為」に対応するため「国内の体制を一新」することが必要であり、近衛内閣の大部分が留任していた平沼内閣が解散することはやむを得なかったと評した[注釈 5]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 弁護士、首相秘書官を経て就任。
  2. ^ 安部博純 ファシズム外交の論理と国際認識:日本外交の国際認識 その史的展開 doi:10.11375/kokusaiseiji1957.51_109 国際政治 (51), 109-128, 1974
  3. ^ 平沼内閣けさ総辞職外交新発足の必要痛感(辞表奉呈後首相声明)新聞記事文庫 政治(59-069)大阪朝日新聞 1939.8.29(昭和14)
  4. ^ 「今回締結せられた独ソ不可侵条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので、我が方は之に鑑み、従来準備来った政策はこれを打切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至った」この声明に「複雑怪奇」という表現にあるように、日本の支配者が国際情勢を判断する力を失い、自主的な外交政策を立てられなくなっていたことの証明である(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 172ページ)
  5. ^ 平沼内閣の総辞職 社説 新聞記事文庫 政治(59-072)読売新聞 1939.8.29(昭和14)

出典 編集

参考文献 編集

  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

関連項目 編集

外部リンク 編集