山内 義雄(やまのうち よしお、1894年3月22日 - 1973年12月17日)は、日本のフランス文学者。長く早稲田大学ほかの教職を務め、また、多くの訳業を遺した。日本芸術院会員。

1948年

生涯

編集

1894年(明治27年)、父通義、母テウの次男として、東京市牛込区(現在の東京都新宿区市谷田町に生まれた[1]。父は陸地測量部長を経て初代の陸軍砲工学校長を務めた陸軍工兵大佐であった。暁星小学校・同中学校を経て、1911年(17歳)、東京外国語学校仏語科に進んだ[2]。中学時代、永井荷風上田敏の訳詩によりヴェルレーヌボードレールを知り、原書を輸入して読み、また、作歌・詩作も試みた。

1915年(大正4年)(21歳)、東京外国語学校を卒業し[3]家庭の事情で、希望の京都帝国大学文学部でなく、[要出典]法学部に入って、文学部上田敏教授の講義をその急逝までの1年余聴いて、直接の薫陶も受けた。1918年経済学部に移ったが[3]、1921年、ポール・クローデル大使が来日することを知って東京帝国大学仏文科専科に転じ、また、東京外国語学校講師を務めた[3]。1923年、東京帝国大学を退学し、1924年、東京外国語学校講師を辞した[3]

26歳上のクローデルとは紹介されて相知り、フランス語の才能を認められて、1927年初めの離日まで繁く行動を共にし、舞踊劇『女と影』(1922年、帝国劇場)、詞華集『百扇帖』(1927年、新潮社)など、大使の滞日作品の出版、上演に尽力した。「完全なフランス語を話す青年」と評されたと言う。

1922年(大正11年)28歳、刊行されたロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々 第1部 灰色のノート』の翻訳をただちに始めた。1923年、アンドレ・ジッド狭き門の完訳を初めて上梓した。日本にジッド・ブームを引き起こした名訳と言われる。

1924年(30歳)、アテネ・フランセ教授となった。 鎌倉市長谷に移転した。1927年、吉江喬松教授に招かれ、早稲田大学の教職に就いた。1928年、鎌倉市笛田へ移った。

1932年(38歳)、『女人芸術』誌の同人、小池みどりと結婚し[4]、のちに2女2男を得た。1935年、東京市牛込区(現在の東京都新宿区新小川町同潤会江戸川アパートへ移った[5]

1938年(44歳)、『チボー家の人々 第一部 灰色のノート』を白水社より出版した[5]。以後1940年の『第7部 父の死』まで刊行し、広く読まれたが、戦争の激化により中断を余儀なくされた。

1941年、レジオン・ドヌール、シュヴァリエ勲章を贈られた[6]。1945年8月1日の空襲で、八王子市郊外に疎開してあった蔵書を焼かれた[6]。1946年、アテネ・フランセを辞した。

1950年(56歳)、『チボー家の人々 第7部 1914年夏』を出版し、それにより日本芸術院賞を受けた[7]。翌々年『第8部 エピローグ』の刊行を終えた[7]。続いて、ジュール・ロマンの『善意の人々』の完訳を宿願としたが、その一部『ヴェルダン』の上梓のみに終わった。

1958年(64歳)、白百合短期大学講師を兼ねた[8]。1964年(70歳)、早稲田大学教授を定年退職し、翌年、白百合短期大学教授となった[9]。1966年、日本芸術院第2部の会員に選ばれた。1968年、カトリック教会の洗礼を受けた[9]

1971年(77歳)、初めてフランスへ旅した[10]

1973年(昭和48年)(79歳)、肺がんにより没し、八王子の上川霊園に葬られた[10]

文業

編集

おもな著作

編集

おもな訳業

編集

初版の年代順に列記する。多く改版・編集されているが、それらのうちの最新版を、各列の「 / 」の後ろに記す。

脚注

編集

出典

編集
  • 山内義雄『遠くにありて』講談社講談社文芸文庫〉、1995年。ISBN 4-06-196311-2 
  • 小田切進編:『日本近代文学大事典 机上版』講談社、1984年。ISBN 9784062009270

外部リンク

編集