寺沢 堅高(てらざわ かたたか)は、江戸時代前期の大名肥前国唐津藩2代藩主。官位従五位下兵庫頭。島原の乱を発生させる原因の一部を作った。

 
寺沢 堅高
時代江戸時代前期
生誕慶長14年(1609年
死没正保4年11月18日1647年12月14日
改名晴丸(幼名)、忠高、堅高
戒名孤峯院殿白室宗不大居士
墓所

佐賀県唐津市西寺町の近松寺

高野山成福院
官位従五位下兵庫頭
幕府江戸幕府
主君徳川家光
肥前唐津藩
氏族寺沢氏
父母寺沢広高妻木貞徳
兄弟忠晴堅高戸川正安正室、久昌院、
水谷勝隆継室
岡部長盛相馬利胤
玉台院
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生涯 編集

寺沢広高の次男。元和8年(1622年)に兄の忠晴が早世したので嫡男となり、寛永10年(1633年)の父の死去により遺領を相続し2代藩主となった。

先代から続く天草地方のキリシタン弾圧を厳しくしたことで、寛永14年(1637年)に島原の乱が勃発した。江戸に参勤中であった堅高はすぐさま帰国して幕府軍とともに乱の鎮圧にあたった。

乱の終結後は失政の責を問われた。同じ乱の当事者であり当主が斬首された松倉勝家に比べれば軽い処分となり、天草領4万石を収公されたに留まったが、出仕も許されず、面目を喪って生き恥をさらす失意の日々を過ごし、正保4年(1647年)に江戸の海禅寺で自害した。自害の原因としては先の天草領没収による精神的動揺が考えられている。

唐津城に保管されている松浦風土記には「寛永十四丁丑年天草一揆起四万石御取上正保四年十一月十八日於江戸ニ乱身ニテ卒去無御子御跡施ス」とだけ記されている。

嗣子はなかったため寺沢家は断絶し、唐津藩は改易となった。

系譜 編集

関連作品 編集

テレビドラマ 編集