国忌(こくき/こっき/こき)とは、東アジア王朝において、皇帝天皇祖先や先帝、母等の命日のうち、特に定めて政務を止めて仏事を行うこととした日である。日本朝廷では、この日に寺院において対象者の追善供養を執り行い、日程が重なる神事は延期された。更に天皇は廃朝官司廃務とされ、歌舞音曲は禁止され、違反者には杖罪80という重い処罰が課された。

中国の国忌 編集

中国では、皇帝や皇后の忌日には、仏寺道観において、斎会を設け香を焚く風習があった。王溥が撰した『唐会要』の「忌日」の項には「京城及び天下の州府の諸寺観では、国忌行香を行うこと、一切を旧に仍る」とある。『資治通鑑』唐紀六十七の懿宗咸通九年十一月の条には「(龐)勛は用うること能わざるといえども、然れども国忌には行香せり」とある。胡三省の注には「唐は中世より以後、国忌の日ごとに、天下州府をして悉く寺観に於いて斎を設け香を焚かしむ。開成の初め、礼部侍郎の崔蠡はその事の経(けい)に無きを以て、拠りて奏して之を罷めたるも、尋いで旧に復す」とある。宋の王禹偁の『小畜集』巻七「律詩」「呉江県寺留題」の詩には、「晨斎施笋は唯だ溪叟のみす、国忌行香は祇だ県官のみす」とある。宋の趙彦衛の『雲麓漫鈔』巻三には「国忌行香は、後魏及び江左南斉の間に起こり、每に香を燃やし手を燻じ、或いは香末を以て散行し、之れを行香と謂う」とある。

日本の国忌 編集

朱鳥元年9月9日686年10月1日)に天武天皇崩御すると、皇后であった鸕野讚良(後の持統天皇)は翌年(持統天皇元年、687年)の9月9日を「国忌」と定めて都の寺院に斎会を開くように命じた。翌年(持統天皇2年、688年)2月には、国忌に必ず斎会を開くように命じた。大宝2年(702年)12月、文武天皇は自分を育てた祖母持統上皇の実父であり、天武天皇の実兄でもある天智天皇の忌日である12月3日を国忌に追加した。

その後、歴代天皇やその生母、皇位に就くことなく死没した実父(追尊天皇)の忌日も国忌に追加され、桓武天皇の時代には16にまで達した。そこで桓武天皇は延暦10年(791年3月23日になって、中国の天子七廟の制に倣って国忌を7つとすることとし、古い時代のものや自身と疎遠な人物のものは廃止することとした。この時の7つとは、天皇の曾祖父(天智天皇)、祖父母(春日宮天皇(志貴皇子)紀橡姫)、両親(光仁天皇高野新笠)、自身の皇后(藤原乙牟漏)と聖武天皇とされている。このうち、聖武天皇の国忌については存置した理由が不明とされており、更に大同2年(806年)には平城天皇により廃止された。しかし、その後しばらく、国忌の追加と古い国忌の廃止は必要に応じて天子七廟の制とは無関係に行われたため、国忌の数は再び増加し、9もしくは10で前後した。清和天皇の時代に、中国の例に倣って国忌の追加と廃止を同時に行うようになって以後、9で固定化された。ただし、天智・光仁・桓武・仁明光孝の5天皇の国忌は永続的なものとみなされたらしく、実際には天皇1及び后妃3の範囲で追加と廃止が同時に行われていたとされる。

そして、延長8年(930年)に醍醐天皇の国忌を文徳天皇のそれに代えて追加したのを最後に、天皇や皇后の遺詔に国忌を辞退する文言が盛り込まれる例が確立されたために、以後先の5天皇と醍醐天皇の6天皇を国忌の対象としたまま、新たな天皇の国忌は追加されなかった。一方、后妃の3枠は亡くなった天皇の生母でかつ皇太后を贈位された者に対するものに変化していった。歴史上、確認される最後の国忌加除は寛元2年(1244年6月27日後嵯峨天皇が自分の生母源通子を国忌に加え、二条天皇の生母藤原懿子を除いたのが最後である。その後、永正元年(1504年)に後柏原天皇が生母源朝子の忌日を国忌に加えようとしたが、財政難を理由に断念している。

国忌に関する具体的な規定が初めて登場したのは、養老律令儀制令(「国忌日、謂先皇崩日、依別式合廃務者」)が最初とされている。その後、延喜式において国忌に関する規定が整備された。それによれば国忌の斎会は東寺西寺で開かれ、参議以上・弁官外記から各1名及び諸司の役人が参加し、不参者は処罰を受けた。勤仕僧100名によって転経・礼仏・散華・行香・呪願などが行われ、終了後に勤仕僧・参加官人・転経数などの名簿を含めた上奏文が作成されて天皇に提出された。先に記された通り、醍醐天皇が国忌に追加されて以後は天皇・皇后は遺によって国忌を辞退したが、天皇・皇后の没後に追善法要が行われなかった訳ではなかった。宮中や御願寺などの故人ゆかりの寺院において追善法要が行われ、これらの法要を俗に「国忌」と称して国家行事としての国忌よりもこちらの国忌の方に力が注がれるようになった。特に天皇の父母に対する法要は「天皇御前の儀」と称されて天皇の普段の居所となっていた清涼殿内にて法会が開かれた。中世に入ると、国家行事としての国忌はほとんど行われなくなり、天皇や皇親の私的行事としての国忌のみが行われるようになった。

国忌の一覧 編集

対象忌日没年設置天皇設置年月日廃止天皇廃止年月日備考
天武天皇9月9日朱鳥1年(686)持統天皇持統天皇1年(687)9月9日桓武天皇延暦10年(791)3月23日
天智天皇12月3日天智天皇10年(671)文武天皇大宝2年(702)12月2日
持統天皇12月22日大宝2年(702)文武天皇桓武天皇延暦10年(791)3月23日
岡宮天皇4月13日持統天皇3年(689)文武天皇慶雲4年(707)4月13日桓武天皇延暦10年(791)3月23日
文武天皇6月15日慶雲4年(707)元明天皇桓武天皇延暦10年(791)3月23日
元明天皇12月7日養老5年(721)元正天皇桓武天皇延暦10年(791)3月23日
元正天皇4月21日天平20年(748)聖武天皇桓武天皇延暦10年(791)3月23日
聖武天皇5月2日天平勝宝8年(756)孝謙天皇平城天皇大同2年(807)5月13日
藤原宮子7月19日天平勝宝6年(754)淳仁天皇天平宝字4年(760)12月12日桓武天皇延暦10年(791)3月23日
藤原光明子6月7日天平宝字4年(760)淳仁天皇天平宝字4年(760)12月12日桓武天皇延暦10年(791)3月23日
称徳天皇8月4日宝亀1年(770)光仁天皇桓武天皇延暦10年(791)3月23日
春日宮天皇8月11日霊亀2年(716)光仁天皇宝亀2年(771)5月29日光孝天皇元慶8年(884)6月17日藤原沢子国忌に代える
紀橡姫9月14日和銅2年(709)光仁天皇宝亀2年(771)12月15日文徳天皇天安2年(858)
光仁天皇12月23日天応1年(781)桓武天皇
高野新笠12月28日延暦8年(789)桓武天皇清和天皇貞観14年(872)12月13日藤原順子国忌に代える
藤原乙牟漏閏3月10日延暦9年(790)桓武天皇村上天皇康保2年(965)1月10日藤原安子国忌に代える
崇道天皇10月7日延暦4年(785)桓武天皇延暦24年(805)4月5日
桓武天皇3月17日大同1年(806)平城天皇
藤原帯子5月27日延暦13年(794)平城天皇大同1年(806)6月9日嵯峨天皇弘仁8年(817)5月21日
藤原旅子5月4日延暦7年(788)淳和天皇弘仁14年(823)5月1日文徳天皇天安2年(858)3月13日
高志内親王5月7日大同4年(809)淳和天皇弘仁14年(823)6月6日清和天皇天安2年(858)12月8日文徳天皇国忌に代える
平城天皇7月7日天長1年(824)淳和天皇宇多天皇光孝天皇国忌に代える
仁明天皇3月21日嘉祥3年(850)文徳天皇
文徳天皇8月27日天安2年(858)清和天皇天安2年(858)12月8日朱雀天皇延長8年(930)12月9日醍醐天皇国忌に代える
藤原順子9月28日貞観13年(871)清和天皇貞観14年(872)12月13日醍醐天皇寛平9年(897)12月8日藤原胤子国忌に代える
藤原沢子6月30日承和6年(839)光孝天皇元慶8年(884)6月19日村上天皇天暦8年(897)12月25日藤原穏子国忌に代える
光孝天皇8月26日仁和3年(887)宇多天皇
藤原胤子6月30日寛平8年(896)醍醐天皇寛平9年(897)12月8日花山天皇寛和1年(985)4月2日藤原懐子国忌に代える
醍醐天皇9月29日延長8年(930)朱雀天皇延長8年(930)12月9日
藤原穏子1月4日天暦8年(954)村上天皇天暦8年(954)12月25日鳥羽天皇天仁1年(1108)7月7日藤原苡子国忌に代える
藤原安子4月29日康保1年(964)村上天皇康保2年(965)1月10日二条天皇平治1年(1159)5月29日藤原懿子国忌に代える
藤原懐子4月3日天延3年(975)花山天皇永観2年(984)12月17日三条天皇寛弘8年(1011)12月27日藤原超子国忌に代える
藤原超子1月28日天元5年(982)三条天皇寛弘8年(1011)12月27日後冷泉天皇藤原嬉子国忌に代える
藤原嬉子8月5日万寿2年(1025)後冷泉天皇寛徳2年(1045)12月13日白河天皇承保2年(1075)6月18日藤原茂子国忌に代える
藤原茂子6月22日康平5年(1062)白河天皇承保2年(1075)6月18日
藤原苡子1月25日康和5年(1103)鳥羽天皇天仁1年(1108)7月7日
藤原懿子6月24日康治2年(1143)二条天皇平治1年(1159)5月29日後嵯峨天皇寛元2年(1244)6月27日源通子国忌に代える
源通子7月18日承久3年(1221)後嵯峨天皇寛元2年(1244)6月27日

関連項目 編集

参考文献 編集