ニューヨーク・シティ・バレエ団

ニューヨーク・シティ・バレエ団New York City Ballet)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンに本拠を置くバレエ団。略称はNYCB。ダンサーは90人[1]。総勢889名の従業員がいる。

New York City Ballet
一般情報
名前New York City Ballet
旧名
創立年1948
設立者
創立振付師
拠点劇場
ウェブサイトwww.nycballet.com
芸術スタッフ
バレエ団長en:Peter Martins
バレエ・ミストレスRosemary Dunleavy
音楽監督Vacant position
その他
オーケストラThe New York City Ballet Orchestra
公式スクールen:School of American Ballet
関連スクール
構成Principal Dancer
Soloist
Corps de Ballet
本拠地のリンカーン・センターD・H・コーク劇場

総資産3億1200万ドル程保有し、8560万ドル総収入がある。アメリカで最も資産・収入が多いバレエ団である。[2]

主舞台はリンカーン・センター内に所在するのデイヴィッド・H・コーク劇場 (旧称:ニューヨーク州立劇場)。夏季には州北部のサラトガ・スプリングズ市でも公演が行われる。

沿革 編集

1933年、米国の舞踊評論家リンカン・カーステインが欧州からジョージ・バランシンを招き、アメリカン・バレエ学校(School of American Ballet)を創設したのが始まりである。

この学校は米国でバレエを発展させたいと願っていたカーステインが、まずダンサーの育成から始めるべしというバランシンの主張を容れて作ったものだった。1935年3月にはその生徒と卒業生によってアメリカン・バレエ (The American Ballet) の名称で最初の公演がおこなわれた[3]。企画・経営はカーステイン、監督・振付はバランシンという体制は以後も続くことになる。

同年秋にメトロポリタン・オペラ劇場の専属バレエ団となったが、1938年に契約を解消[4]。これにともないバレエ団は一旦解散した。カーステインは1936年3月に別働隊としてバレエ・キャラバン(Ballet Caravan) という小バレエ団を組織し新人の活躍舞台としていたが、こちらも1940年9月に解散。この間バレエ学校は常時存続していた。1941年、両者が再生合同して新生のアメリカン・バレエとなり、国務省支援による中南米巡演をおこなった。しかし帰国後の同年11月に再び解散[5]

戦後の1946年バレエ協会 (Ballet Society) として復活し、会員制によるバレエ公演を再開する。1948年4月にはニューヨーク・シティ・センターと契約して専属バレエ団となり今日の名称となった。元ABTJ・ロビンズが助監督に就任し、1950年代には欧州や日本[6]に巡演して評価を高めた。フォード財団による支援も受けて活動は続き、1964年に現在の本拠地であるニューヨーク州立劇場へ移転した[7]

創設以来バレエ団を率いてきたバランシンの志向を反映して、厖大な数の抽象バレエ作品をレパートリーに持っている。『放蕩息子』や『真夏の夜の夢』など物語のある作品もあるが、英国ロイヤル・バレエ団などに比べるとその比率は少ない。作曲家別ではストラヴィンスキーの作品が多いのも特徴である。ダンサーは傘下のアメリカン・バレエ学校出身者がほとんどで、動きや体型まで含めた独自の基準で採用されている。

1981年にバランシンが病気で倒れると、指名によってプリンシパルのピーター・マーティンスが後継バレエマスターとなった。現在でも年間に2〜3のペースで新作が作られ、バランシン作品の復刻上演もおこなわれているが、近年の新作は小品ばかりで方向性が見えず全体的に質が低下しているといった批判も出てきている[8]

2008年以降、ボリショイ・バレエ団の芸術監督を退いてABTに移籍したA・ラトマンスキーに依頼して新作をいくつか作らせている。

米紙ニューヨーク・タイムズ電子版は2018年1月1日に芸術監督ピーター・マーティンスが退団したと報じた。セクハラやパワハラ疑惑が浮上していたが、本人は否定している。同紙は先月、現役1人を含む計5人のダンサーがマーティンスから虐待を受けたと証言したと報道し、ニューヨーク・シティ・バレエ団が事実関係の調査に乗り出していた[9]

過去に在籍したダンサーたち 編集

主なレパートリー 編集

緑色は作曲そのものを委嘱したことを表す。

初演
作品
振付
音楽
構成
所要時間
1935セレナーデSerenadeバランシンチャイコフスキー1幕
32分
1948シンフォニー・イン・CSymphony in Cビゼー
32分
オルフェウスOrpheusストラヴィンスキー
30分
1950放蕩息子Prodigal Sonプロコフィエフ
35分
1951The Cageロビンズストラヴィンスキー
14分
1957アゴンAgonバランシン同上
25分
1962真夏の夜の夢A Midsummer Night's Dreamメンデルスゾーン2幕
6分,
28分
1963ブガクBugaku黛敏郎1幕
25分
1968ハイドン協奏曲Haydn ConcertoJ・タラスJ・ハイドン
?
1970フー・ケアーズ?Who Cares?バランシンガーシュウィン
〔編曲 H・ケイ
40分
1972サーカス・ポルカCircus Polkaロビンズストラヴィンスキー
3分
1975マ・メール・ロワMa Mère l'Oyeラヴェル
?
1981モーツァルティアーナMorzartianaバランシンチャイコフスキー
27分
1991眠れる森の美女The Sleeping Beautyプティパ
バランシン
マルテンス
2幕
74分,
47分
1995ウエスト・サイド・ストーリー組曲West Side Story Suiteロビンズバーンスタイン1幕
32分
2008コンチェルトDSCHConcerto DSCHラトマンスキーショスタコーヴィチ
25分
2010ナムーナNamounaラロ
58分

脚注 編集

  1. ^ 2011年6月現在。プリンシパル24名、ソリスト12名、コール・ド・バレエ54名。
  2. ^ New York City Ballet | New York, NY | Cause IQ”. www.causeiq.com. 2024年1月26日閲覧。
  3. ^ 1935年3月1日。会場はマンハッタンのアデルフィ劇場、演目はバランシン振付の『セレナーデ』『夢』など。このときの第2プログラムの詳細は次を参照。 Global Performing Arts Database
    なお、1934年6月の時点ですでにアメリカン・バレエ学校生徒による公演は行われていたが、そのときの名称はまだ "アメリカン・バレエ学校創作バレエ団" であった。 cf. NYCB Repertory - "Serenade".
  4. ^ バランシンは当初、故郷のマリインスキー劇場と雰囲気が似ているメトロポリタン歌劇場を気に入っていたが、歌劇場の経営陣がバレエの予算を出し渋り、リハーサルではオケの演奏をつけさせずピアノだけで済ませるなどしたため、次第に両者の関係は悪化した。 cf. Bernard Taper, Balanchine, pp.165-168., 1996, U. of California Press.
    なおメトロポリタン時代の作品に『オルフェオとエウリディーチェ』(1936年)、『カルタ遊び』(1937年原版)などがある。前者はC・W・グルックのオペラをバレエ化した作品で、声楽も動員するものであったが結局失敗に終わり、現在はレパートリーに残っていない。
  5. ^ 戦時中カーステインは米陸軍に徴集され兵士として従軍した。("Lincoln Kirstein", Monuments Men Foundation)
  6. ^ 来日は1958年3月。新宿コマ劇場ほかで『セレナーデ』『ウエスタン・シンフォニー』などが上演された。cf. 日本洋舞史年表I・1900-1959.
  7. ^ この劇場はバレエ用の劇場として設計段階からバランシンの要望を聞いて作られた。バランシンの指示によって座席はえび茶色に統一されたほか、竣工直前にオーケストラ・ピットが拡大されたという。杮落しもバランシンのバレエ作品だった。 cf. NYCB - "Fun facts about David H. Koch Theater".
  8. ^ 例えば次を参照。Robert Gottlieb, "City Ballet, Balanchine And a Legacy Imperiled", The New York Observer, 21 July 2002
  9. ^ 2018年1月3日中日新聞朝刊6面

文献 編集

  • Finkel, Anita, "New York City Ballet", International Encyclopedia of Dance, vol.4, Oxford University Press, 1998, ISBN 0-19-517588-3, pp.606-624.

外部リンク 編集