松平盈乗

日本の江戸時代中期の大名。三河奥殿藩初代藩主松平乗真長男で、奥殿藩2代藩主。真次流大給松平家5代。従五位下縫殿頭。日光祭祀奉行・江戸城御門番等を歴任

松平 盈乗(まつだいら みつのり)は、江戸時代中期の大名三河国奥殿藩2代藩主。真次流大給松平家5代。官位従五位下縫殿頭

 
松平盈乗
時代江戸時代中期
生誕正徳6年4月11日1716年5月31日
死没寛保2年5月21日1742年6月23日
改名半平(幼名)→盈乗
戒名絞誉超然清英光顕院
墓所東京都港区赤坂の浄土寺
官位従五位下縫殿頭
幕府江戸幕府
主君徳川吉宗
三河奥殿藩
氏族大給松平家
父母父:松平乗真、母:清光院
兄弟養兄弟:平野長英
正室:松平乗賢
継室:松平乗邑養女
乗穏乗睦
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生涯 編集

正徳6年(1716年)4月11日、初代藩主・松平乗真の長男として奥殿で誕生。しかし父は享保元年(1716年)7月5日に死去し、生まれたばかりで9月5日に家督を継いだ。このため、縁戚の畠山義寧の補佐を受けた。

享保10年(1725年)、8代将軍・徳川吉宗御目見する。享保15年(1730年)に従五位下・縫殿頭に叙位・任官する。藩政では享保11年(1726年)から藩財政悪化のため、倹約や借金返済の期限を延長したり、享保15年(1730年)12月から財政再建5カ年計画を打ち出したり、参勤交代免除の定府願いを出すなどしているが、その一方で千曲川矢作川の水害、虫害、享保19年(1734年)の享保の飢饉、日光祭祀奉行や江戸城御門番などの出費などもあって財政再建はならず、また盈乗自身が病弱で、享保21年(1736年)1月からは特に病がちとなって藩政を執ることも困難になった。

寛保元年(1741年)2月、癇癪が原因で病に倒れ、回復することなく寛保2年(1742年)5月21日に江戸で死去した。享年27。跡を長男・乗穏が継いだ。

系譜 編集

父母

正室、継室

子女