杉 (松型駆逐艦)

松型駆逐艦

(すぎ)は、日本海軍大東亜戦争太平洋戦争)で運用した駆逐艦[2]松型駆逐艦の7番艦[3]。艦名としては樺型駆逐艦[4]の9番艦「[5]に続いて2代目。

基本情報
建造所藤永田造船所
運用者 大日本帝国海軍
級名松型駆逐艦
艦歴
起工1944年2月25日
進水1944年7月3日
竣工1944年8月25日
除籍1945年10月5日
その後中華民国海軍「恵陽」となる。1951年ころ廃艦。
要目
基準排水量1,262t
公試排水量1,530t
全長100.00m
最大幅9.35m
吃水3.30m
ボイラーロ号艦本式缶 2基
主機艦本式タービン 2基2軸
出力19,000hp
速力27.8kt
燃料重油370t
航続距離18ktで3,500
乗員211名 / 257名[1]
兵装
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概要 編集

一等駆逐艦(すぎ)は、帝国海軍が藤永田造船所で建造した駆逐艦で[6]1944年(昭和19年)8月25日に竣工した[7]。訓練部隊の水雷戦隊#第十一水雷戦隊に編入され[8]、内海西部で訓練をおこなう。捷一号作戦発動により小沢機動部隊に編入される[注 1]10月20日に内海西部を出撃したが[10]、燃料不足のため僚艦「」と共に離脱し[11]10月25日の対空戦闘には参加していない(レイテ沖海戦)。内地帰投後、第三十一戦隊と共に第四航空戦隊を護衛して南西方面に進出した[12]

11月15日より第52駆逐隊に所属した[13]マニラ回航後、12月上旬に第八次多号作戦に参加[14]、「杉」は小破した[15]。12月下旬、礼号作戦に参加した[16][17]。1945年(昭和20年)1月21日台湾高雄港で米軍機動部隊艦上機の空襲を受けて損傷した[18]。3月中旬より呉で修理をおこない、以後は内海西部で待機した[7]。戦後は復員輸送に従事した。その後、国府海軍(のちの台湾海軍)に引き渡され、「恵陽(フェイヤン)」と命名された[19]

艦歴 編集

建造から練習部隊 編集

仮称艦名、5487号艦[2]1944年(昭和19年)2月25日、藤永田造船所で起工[20]。6月5日、「」と命名される[6]。同5日付で駆逐艦3隻(杉、)は松型駆逐艦に類別された[21]。7月3日、進水[20]。7月15日、重巡那智水雷長の菊池敏隆少佐は杉艤装員長に補職される[22]。8月25日、竣工[20]佐世保鎮守府[23]。同25日付で菊池艤装員長は制式に杉駆逐艦長となった[24]。艤装員事務所を撤去する[25]

就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将海軍兵学校41期)[26] に編入された[8][27]8月25日時点の十一水戦旗艦は駆逐艦「」であった[28][29]。軽巡洋艦「多摩」の十一水戦編入により、8月30日から「多摩」が旗艦となった[29][30]。「杉」は大阪を出発して瀬戸内海に回航された[31]。これ以降、10月中旬まで十一水戦僚艦や[32]、内海西部所在だった第二遊撃部隊と[33][34]、訓練をおこなう[35][36]

10月15日[36]小沢治三郎中将は「秋月」と「杉」に対し、鹿児島への緊急弾薬輸送を行うよう命じた[37]。10月16日朝、小沢長官は秋月型駆逐艦2隻(若月涼月[38]に対し、台湾高雄への第六五三海軍航空隊人員と基地物件輸送を命じた[39]。同16日午後2時、秋月駆逐艦長が指揮する2隻(秋月、杉)は呉を出発した[40]。同日夜、九州都井岬沖合を航行中の2隻(若月、涼月)をアメリカ潜水艦ベスゴが襲撃、被雷した「涼月」は艦首を失った[41][注 2]

10月17日午前6時30分、小沢長官は「涼月」の呉帰投と「杉」への物件移載、さらに若月駆逐艦長の指揮による「若月」と「杉」の台湾輸送を命じた[43]。これに対し連合艦隊は「若月」と「涼月」を鹿児島に入港させ、練習巡洋艦「鹿島」と第30駆逐隊(夕月卯月)に物件を移すよう命じた[44]。同17日正午、「秋月」と「杉」は鹿児島に到着した[40][45]。そのころ南西方面では、アメリカ軍がフィリピン、レイテ湾スルアン島に上陸を開始した[46][47]。日本海軍は捷一号作戦警戒を発令した[48]。3隻(若月、涼月、杉)に対する台湾輸送命令は取り消された[49]。実際に高雄輸送をおこなったのは3隻(鹿島、夕月、卯月)だった[50][51]

10月18日夕刻に日本軍捷一号作戦を発動した[52][53]。この作戦は第三艦隊司令長官小沢治三郎中将(海兵37期)が率いる機動部隊が囮となって第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)をひきつけ、その隙に第二艦隊司令長官栗田健男中将(海兵38期)率いる第一遊撃部隊(通称「 栗田艦隊 」または「 栗田部隊 」)がレイテ湾に突入しアメリカ軍の上陸部隊を撃破するというものであった[54]

小澤機動部隊の護衛は第二遊撃部隊(第五艦隊)が担当していたが[55]台湾沖航空戦の「残敵掃討」に投入されてしまった[56][57]。このため第三航空戦隊第四航空戦隊の警戒兵力が不足し、連合艦隊は内地所在の第十一水雷戦隊から軽巡「多摩」と本艦を[58]、対潜掃蕩部隊の第三十一戦隊から一部兵力を[59]、機動部隊に編入した[60][61]。高間少将は十一水戦旗艦を「多摩」から駆逐艦「」に変更し、内地に残った[58]。四航戦のうち空母「隼鷹」と「龍鳳」は搭載する航空隊がなく、出撃しなかった[62]。出撃各艦は内地残留の「隼鷹」から燃料を補給した[59]

10月20日夕刻[63]空母4隻と航空戦艦2隻[64]を基幹とする小沢機動部隊は豊後水道を出撃した[注 3]22日、「杉」は空母千歳」から重油の洋上補給を行う[注 4]23日午前より、小沢機動部隊は対潜警戒を主とした第一警戒航行序列から、対空警戒を主とした輪形陣に切り替えた[65][66]。輪形陣は、第五群(瑞鶴瑞鳳伊勢、大淀、多摩、初月秋月若月、杉、桐)と、第六群(千代田千歳日向、五十鈴、霜月)にわかれていた[67]

10月24日、上空警戒にあたっていた「瑞鶴」の零戦1機が着艦に失敗して海上に墜落し、「桐」と「杉」が捜索を行う。この分離について『戦史叢書56巻』240ページでは「小沢長官(瑞鶴)は燃料不足になった桐に杉を付し台湾高雄に退避させた」と記述している[注 5]。捜索後、同24日深夜には第四航空戦隊[注 6](日向、伊勢)[70]及び秋月型駆逐艦4隻(初月、若月、秋月、霜月)からなる機動部隊前衛部隊に「桐」と「杉」は再合流、前衛部隊に後続する事とした[71]。しかし同時刻に上空を飛行していた空母「インディペンデンス」所属の夜間哨戒機を発見し、同機の発した無線通信[注 7]が艦内電話に混線した事などもあり、桐駆逐艦長川畑誠少佐はこの前衛部隊を米軍機動部隊であると誤認、松型2隻(桐、杉)で反転離脱する事となった[72][73]。その後、「桐」は「燃料の余裕がない」との機関長の進言もあって高雄に向かい、「杉」もこれに同行している[74]。23時53分[75]、小沢長官は「前衛(四航戦)と杉は本隊に合同せよ。桐は奄美大島で補給した上で合同せよ」と命じた[注 8]。この命令があったものの、「桐」と「杉」は機動部隊と再合流できなかった。このため2隻とも10月25日エンガノ岬沖海戦に参加していない[74]10月26日午前9時30分に高雄市到着、つづいて奄美大島に向かい29日着[77]。補給部隊のタンカー「たかね丸」(日本海運、10,021トン)から200トンの重油を補給してもらった[78][79]。特務艦「室戸」の生存者158名[注 9]を乗せ、「桐」とともに10月29日に奄美大島を出港し、翌10月30日にに帰投した[81]。「杉」と共に出撃した十一水戦の軽巡「多摩」はアメリカ潜水艦ジャラオに撃沈され、全乗組員が戦死した[82]

南西方面作戦 編集

11月2日付で、十一水戦の松型2隻(杉、桑)は第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将・海兵40期)の指揮下に入った[83][84]。第三十一戦隊は旗艦軽巡洋艦五十鈴」と[12]、護衛部隊(秋月型駆逐艦〈霜月[85]、松型駆逐艦〈 、杉、〉)という編成で、南方に進出する第四航空戦隊航空戦艦2隻(日向伊勢)を護衛する[86][注 10]。南方輸送部隊「H部隊」は11月9日に五島列島有川湾を出撃し[注 11]馬公経由で14日に南沙諸島(新南群島)に到着した[90][91]

11月15日、日本海軍は松型5隻(桑、檜、樅、杉、樫)で第52駆逐隊を新編した[13]。駆逐隊司令には岩上次一大佐が任命された[92]。引き続き第十一水雷戦隊に編入された[93]17日、新南群島で四航戦と護衛艦艇(霜月、梅、桐)と別れ、第三十一戦隊はマニラに進出した[注 12][注 13][注 14]

11月25日[93]、第52駆逐隊は第三十一戦隊に編入された[注 15][注 16]

この頃、第三十一戦隊は第五艦隊に編入されていた[101]。さらに北東方面艦隊の解隊にともない第五艦隊12月5日付で南西方面艦隊に編入され、第五艦隊隷下の第三十一戦隊も自動的に南西方面艦隊所属となった[105]。軍隊区分においては、南西方面部隊の警戒部隊であった[108]。南西方面艦隊はレイテ島西岸オルモック湾への輸送作戦である多号作戦を依然として続行しており[109]、「杉」も第八次多号作戦に参加することになった[14]。マニラ出撃前、第七次多号作戦から帰投した姉妹艦「」の損傷状況を目撃して、杉乗組員は厳しい作戦を覚悟したという[110]12月5日[110]、駆逐艦3隻(梅、桃、杉)、第18号駆潜艇、第38号駆潜艇、第11号輸送艦、輸送船3隻、SS艇3隻[111]から成る第八次多号作戦部隊はマニラを出撃した[112]。指揮官は第43駆逐隊司令菅間良吉大佐で、「梅」に座乗していた[113]

上陸予定日の12月7日早朝、日本陸軍航空部隊がオルモック南方に大規模船団を発見、上級司令部は判別に迷ったが、やがて敵輸送船団と判明した[114]。日本陸海軍航空部隊は、多号作戦部隊の護衛と、敵上陸船団攻撃の、二つの任務を実施する[115]。アメリカ軍第77師団のオルモック南方上陸でレイテ島地上戦の状況が一変し[116]、第43駆逐隊司令はオルモック湾への接近を断念、揚陸地をレイテ島西岸北方のサン・イシドロ英語版に変更した[117][118]。同7日午前9時、第八次輸送部隊はサン・イシドロに到着して揚陸を開始した[119]。のべ25機の日本海軍戦闘機が船団の上空直掩を実施した[120]。同地には接岸施設がなく、兵員の揚陸は成功したが重火器の揚陸は出来なかった[121]。また揚陸中にタクロバンからの陸軍機と海兵隊機の爆撃を受け、多数の死傷者を出した[117]。輸送船も撃沈されたり海岸に擱座して壊滅した[122][123]。重装備を失ってレイテ島に上陸した第六十八旅団は、その後の地上戦で「消滅」した[124]。マニラへの帰投中、空襲を受け「杉」は損傷した[125]F4U コルセア復数機から機銃掃射を受け、軍医長を含め多数の乗組員が倒れた(戦死35名、負傷43名)[126]。誘爆を防ぐため魚雷も投棄した[15]12月9日昼頃、「杉」はマニラにたどり着いた[127]。同地では駆逐艦3隻(夕月卯月)が第九次多号作戦のため出撃準備を整えており、「桐」乗組員は「杉」の損傷状態を目の当たりにした[127]

12月13日、陸軍偵察機がミンドロ島を目指す連合軍大部隊を発見した[128][129]12月14日をもって第十次多号作戦(駆逐艦「清霜[注 17]、松型駆逐艦複数参加予定)[131][132]は中止された[133][134]。同14日第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦上機はマニラを含めルソン島各地を襲撃した[135]。松型3隻(杉、樫、榧)はマニラを脱出する[136]。姉妹艦「梅」は海南島経由で香港へ脱出した[137]。マニラ空襲で損傷していた「桃」は[138]、高雄にむけ避退中の15日夜にアメリカ潜水艦ホークビル (USS Hawkbill, SS-366) の雷撃で沈没した[139]

14日20時[140]、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将(南西方面部隊指揮官)は、敵がルソン島に来攻した場合に第二遊撃部隊(第五艦隊)と第三十一戦隊の駆逐艦4隻(梅、榧、杉、樫)で突入作戦を実施させるため、両部隊の南沙諸島進出を命じた[141]。第二遊撃部隊は既にカムラン湾に進出していた[142]。マニラ脱出後の松型3隻(樫、杉、榧)は、ひとまず南沙諸島で様子をうかがっていた[136]

12月15日、アメリカ軍はミンドロ島に上陸を開始してミンドロ島の戦いが始まる[143][144]12月16日午前8時35分[145]大川内長官(中将、海兵37期)は[146]、南沙諸島に待機中の駆逐艦3隻(樫、榧、杉)によるミンドロ島サンホセへの殴り込み作戦を発令、突撃部隊指揮官は第43駆逐隊司令菅間良吉大佐(海兵50期)であっ[147]。計画では「マニラへ向かう航路を取りつつカラミアン諸島を背景にサンホセに突入し、突入後はマニラに帰投する」という作戦だった[148]。この時、松型3隻(榧、杉、樫)はカムラン湾入港直前だったという[149]。「樫」は給水ポンプの復旧の見込みが立たず速力は21ノットを出すのがやっと、「杉」は多号作戦での損傷が癒えておらず、「榧」も不具合を抱えていた[150]。同16日夕刻[151]、43駆司令指揮下の3隻(杉、樫、榧)はカムラン湾に入港し、タンカー「日栄丸」(日東汽船、10,020トン)から燃料を補給した[152]。同16日夜、連合艦隊司令部(参謀長草鹿龍之介中将、先任参謀神重徳大佐)は南西方面部隊に対し、第二遊撃部隊のミンドロ島突入を迫った[153][154]

12月17日、松型3隻はカムランを出撃したが海上は台風で大荒れだった[149]。同17日午後[152]、菅間司令は松型3隻の状態から突入作戦成功の見込みなしと判断し、サンジャックに移動して修理すると報告した[155]18日夜、第二遊撃部隊がサンジャックに到着する[152]。菅間司令は松型3隻の20日夜突入と「但シ 司令ハ肺浸潤俄カニ重リシトシテ「サイゴン」病院ニ入院」を打電した[152]。榧駆逐艦長の指揮下で再出撃したが[149]12月19日午前5時46分になり大川内長官は松型3隻の突入中止と[156]、第二遊撃部隊との合同を命じた[157][152]

12月20日、連合艦隊司令部(草鹿参謀長、神重徳参謀)は南西方面艦隊にミンドロ島逆上陸と水上部隊殴り込みを督促した[153][注 18]。大川内中将は第二水雷戦隊(司令官木村昌福少将・海兵41期)を中心としてサンホセへの突入作戦を行うよう、志摩中将に命令した[160][注 19][注 20]

第二遊撃部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は旗艦を重巡「足柄」から航空戦艦「日向」に変更した[164][注 21]12月21日21時30分[166]、3隻(樫、榧、日栄丸)はサンジャックを出発、22日夕刻にカムラン湾へ進出した[167]。挺身部隊(指揮官木村昌福少将、第二水雷戦隊司令官)の集結を待ち[168]12月24日にカムラン湾を出撃して殴りこみ作戦「礼号作戦」が開始された[169][17]。挺身部隊は、第一挺身隊(旗艦、一番隊〈 清霜朝霜 〉、二番隊〈 榧、杉、樫 〉)、第二挺身隊(足柄大淀)という編成であった[16]。作戦を通じ、「杉」は空襲による至近弾でレーダーが使用不能となったほか、砲戦および魚雷戦に必要な装置も破損したが[170]、人的の面では戦死した乗員はおらず軽傷者1名を出しただけだった[171]。カムラン湾への帰路[172]についていた12月28日午後、南西方面艦隊は松型3隻(榧、樫、杉)を第二遊撃部隊からとりあげ、南西方面部隊警戒部隊に編入した[173]。二番隊は二水戦から遅れてカムラン湾へむけ航行中、アメリカ潜水艦デイス (USS Dace, SS-247) の雷撃により仏印沖で沈没した給糧艦「野埼[174]の乗員を発見、救助を実施した[175][176]12月29日11時35分、カムラン湾に帰投して大型艦から燃料を補給した[177][178]。同29日1400、「杉」や大淀等はカムラン湾を出発、12月30日13時サンジャックに到着した[179]。なおマニラから姉妹艦2隻()がカムラン湾に到着し、このうち「樅」には第三十一戦隊司令部(鶴岡少将)が乗艦していた[180]30日午後、サンジャックにて鶴岡少将は第三十一戦隊旗艦を「樅」から「樫」に変更した[注 22][注 23]

1945年の行動 編集

1945年(昭和20年)1月1日、サンジャックを出港して香港経由で1月7日台湾高雄に到着した[183]。なお1月6日付で「杉」は第52駆逐隊の司令駆逐艦に指定された[184]8日朝、南西方面艦隊は第三十一戦隊に麾下3隻(梅、樫、杉)のルソン島リンガエン湾突入を促した[185]9日朝、南西方面艦隊は水上部隊のリンガエン湾突入をあきらめたので、高雄で修理中の「榧」は舞鶴へ帰投し、香港で修理中の「梅」も高雄へ移動した[185]。1月10日、南西方面部隊指揮官(南西方面艦隊長官)は各部隊の任務を変更した[注 24]。第三十一戦隊(司令官鶴岡信道少将)に対し「警戒部隊ハ指揮官所定ニ依リ台湾海峡及呂栄海峡方面ニ於ケル敵潜水艦掃討ヲ行フト共ニ 台湾、呂栄間ノ作戦輸送ニ任ズベシ」と命じたのである[187]。「杉」は高雄で修理を続けていたが、レーダーや方位磁針の修理が出来ない事から、佐世保への回航が決まる[188]

1月21日、高雄で第38任務部隊艦上機の空襲を受け、松型3隻(梅、樫、杉)で応戦する[18]。「杉」は至近弾数発を受けてレーダーなどに被害をうける[189]。「樫」を旗艦としていた第三十一戦隊司令部は、陸上の高雄警備府に将旗を掲げた[180]。損傷艦はただちに基隆への回航が命じられ、1月23日に到着した[190]。応急修理の後2月1日、松型2隻(杉、樫)で出港し[191]舟山群島南号作戦のヒ88A船団部隊(「せりあ丸」〈三菱汽船、10,238トン〉、第205号海防艦、第41号海防艦)[192] に合流して門司まで護衛を行った[193]7日、ヒ88A船団部隊は門司に到着した[194]。護衛終了後の8日に佐世保に帰投し、佐世保海軍工廠で修理が行われた[195]

航海中の2月5日付で第五艦隊が解隊されて第十方面艦隊が新編された[196][197]。第三十一戦隊は連合艦隊付属を経て[187]3月15日付で第二艦隊に編入された[198]。第三十一戦隊司令部は空路で内地に戻り、駆逐艦「」や秋月型駆逐艦「花月」に将旗を掲げた[199]。第三十一戦隊の第二艦隊編入3日前に「杉」は第52駆逐隊の司令駆逐艦となった[200]。杉谷長秀大佐(当時、駆逐艦涼月艦長)が第52駆逐隊司令に補職された[201]。修理後は呉に回航されて戦艦大和」の護衛にあたるが、間もなく呉海軍工廠で再度の修理が行われた[202]4月20日、第二艦隊と第二水雷戦隊の解隊により、第三十一戦隊は連合艦隊付属となった[203]5月20日、第三十一戦隊と軽巡洋艦「北上[204](人間魚雷回天母艦)などで海上挺進部隊が編成され、「杉」も同部隊に所属した[205]。その後は瀬戸内海で訓練と待機の日々を過ごし、終戦時は呉に在泊していた。10月5日除籍。

12月1日に特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事。終了後は賠償艦に指定され、1947年(昭和22年)7月31日に中華民国に引渡し、接一〇号と仮命名された後、恵陽(フェイヤン)と正式に命名された[19]。しかし、同型の賠償艦で状態の良かった信陽(旧「初梅」)[206]とは違い、状態の良くなかった華陽(旧「」)[207]や衡陽(旧「」)[208]とともに再武装されず任務も与えられなかった[209]国共内戦中の1949年5月に上海を脱出して台湾に向かった際、淡水で座礁事故を起こし、そのまま修理されないまま1951年に除籍され解体された[210]

歴代艦長 編集

1944年9月の「杉」艦型略図。25mm3連装機銃4基、同単装12基を装備

※『艦長たちの軍艦史』364頁による。

艤装員長 編集

  1. 菊地敏隆 少佐:1944年7月15日[22] - 1944年8月25日[24]

駆逐艦長 編集

  1. 菊地敏隆 少佐:1944年8月25日[24] - 不明

出典 編集

編集

  1. ^ 〔 (長官)KdB|31S司令官 KdMB〔 GF長官 2F長官 軍令部総長〕|機密第一七一三五〇番電 KDMB電令作第九號 一.3Sf、4Sf(第六三四航空隊欠)31S(一部欠)大淀 61dg(涼月欠)41dg(冬月欠)ハ速ニ出撃準備ヲ完成シ八島錨地ニ集合スベシ/二.第六五三航空隊中大分鹿児島航空基地方面残留兵力及第六〇一航空隊中着発可能兵力ハ別ニ定ムル所ニ依リ別動スル3Sfニ収容ス/三.尓余ノ隊艦ハ現任務ヲ続行スベシ|無電 〕・〔 (長官)KdMB(宛略)機密第一七一六二五番電 KdMB電令作第一〇號 一.電令作第七號第一項出撃兵力ニ多摩 杉ヲ追加ス/二.同二項 三航戰収容兵力ニ634fg当方残留兵力ニシテ母艦着発可能兵力ヲ追加 右兵力ハ十九日中ニ大分航空基地ニ転進スベシ|無電 〕[9]
  2. ^ 一部の二次資料では「涼月」の被雷時刻を10月18日午前零時としている[42]
  3. ^ 機動部隊軍隊区分[10]:第一軍隊区分 主隊(三航戦、四航戦)、巡洋艦戦隊(多摩、五十鈴)、警戒隊/第一駆逐連隊(大淀、桑、槇、杉、桐)/第二駆逐連隊(初月、秋月、若月、霜月)、補給部隊(仁栄丸、たかね丸、秋風、海防艦4隻)|第二軍隊区分 主隊(三航戦、巡洋艦戦隊、第一駆逐連隊)、前衛(四航戦、第二駆逐連隊)。
  4. ^ 『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036600, pp.19,20 。「千歳」の記録では、補給の相手は「」となっている(『捷一号作戦戦闘詳報』C08030582500, pp.4)
  5. ^ 『戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)』240頁[11](引用開始)一七〇〇過ぎ、小澤長官は、燃料不足になりつつある駆逐艦桐を高雄に向け分離させることを決意した。同長官は自隊の警戒兵力の不足するのを覚悟の上で、さらに駆逐艦杉をもこれに付した。/こうして、「桐」と「杉」は主隊から分離し、爾後の警戒兵力は軽巡三隻(多摩、五十鈴、大淀)と駆逐艦二隻(槇、桑)となった。(引用おわり)
  6. ^ (昭和19年10月24日、火曜日)[68](中略)1800頃本隊指揮官より前衛(〈将旗〉日向、伊勢、秋月、若月、涼月、霜月)は敵方に進出残敵を撃滅すべき命あり、航空戦の戦果詳ならず、敵兵力の位置亦不明(以下略)〔 註、秋月型涼月は出撃直前に被雷して内地で修理中[69]。 〕
  7. ^ USS Enterprise (CV6) Action Report 22-31 October 1944』によれば、同機は午前2時5分に「北緯16度50分 東経125度10分 / 北緯16.833度 東経125.167度 / 16.833; 125.167の地点で東進する2つのグループに分かれた日本軍部隊を発見した」という報告を行っている。
  8. ^ 機動部隊本隊電令作第一五号(1KdF機密第二四二三五三番電)[76] 一 本隊二十五日〇六〇〇地点「ヘンホ33」〔 北緯18度30分、東経126度30分 〕針路一四〇度速力十六節 前衛及杉ハ本隊ニ合同スベシ/二 桐ハ単独奄美大島ニ回航補給ノ上速ニ合同スベシ
  9. ^ 「室戸」は10月22日に薩南諸島近海でアメリカ潜水艦シードッグ (USS Sea Dog, SS-401) に撃沈された[80]
  10. ^ 南方輸送部隊編成[87]〔 1KdF機密第〇二一四一八番電 第四航空戰隊(日向 伊勢)第四十一駆逐隊(霜月)凉月 第三十一戰隊(五十鈴 桑 桐 梅 桃 杉)ハ十一月八日槙冬月十八日頃内地出撃可能ノ見込 〕(註:秋月型涼月は浸水事故のため不参加[88]。)
  11. ^ (昭和19年11月)[89]〔 9|0615日向、有明湾発五島北方にて伊勢、(司令官)/31S、五十鈴、霜月、桑、槇、杉、桃、合同し茲に南方輸送部隊H部隊の集合成る。指揮官31S司令官。速力20kt馬公に向う。〕(註:槇ではなく「梅、桐」[87] が参加した。)
  12. ^ (昭和19年11月)[89]〔 17|2YP電令により支援部隊5F(足柄)4Sf、榛名、大淀、d×4はリンガに回航の事となる。31S(五十鈴、槇、桑、杉、桃)マニラに向かふ。4Sf、霜月、梅、桐は長島錨地に向ふ。1600入泊。1Sd、霞、潮、竹、同地にあり各艦に燃料を補給す。〕(註:「槇」は41駆(冬月、霜月)と空母「隼鷹」護衛任務[94]。)
  13. ^ マニラ進出後の11月19日、第三十一戦隊旗艦「五十鈴」がマニラ沖合で[95]、アメリカ潜水艦ヘイク (USS Hake, SS-256) の魚雷攻撃を受ける[96]。被雷により艦尾と舵を失った「五十鈴」は「桃」に護衛されてシンガポールにむかった[97]
  14. ^ 『戦史叢書93巻』74ページでは「梅」が「五十鈴」の護衛、「桃、桐」が第一遊撃部隊(大和、長門、金剛)護衛となっているが[98]、第一遊撃部隊護衛は「梅」と「桐」である[99]
  15. ^ (昭和19年11月25日、第52駆逐隊を第三十一戦隊に編入する)[100]第52駆逐隊第五艦隊隷下の第三十一戦隊[101](司令官江戸兵太郎少将・海兵40期)に編入された[102]
  16. ^ この日、第三十一戦隊旗艦「霜月」が潜水艦カヴァラに撃沈された[103]。霜月沈没により[104]、江戸少将と司令部は全滅した[105]。後任の第三十一戦隊司令官は鶴岡信道少将で[106]、新司令部は12月上旬に内地で発足、空路でマニラへ進出した[107]
  17. ^ (昭和19年12月12日)[130]〔 十二日一六四六(指揮官)NSB|十三日〇二〇〇(指揮官)2YB (司令官)2Sd(GF長官-)|南西方面部隊電令作第八一八號 第十次多號輸送作戰期間中第二水雷戰隊ノ駆逐艦一隻ヲ護送部隊ニ一時編入ス 右駆逐艦ハ十二月十四日一二〇〇迄ニ「マニラ」ニ回航セシムベシ|無電 〕/〔 十三日〇六四五(司令官)2Sd(宛略)二水戰電令第八號 南西方面部隊電令作第八一八號ニ依ル駆逐艦ヲ二駆(清霜)ニ指定ス|信號 〕/〔 十三日(指揮官)2YB|十三日〇八四〇 2YB|着信者 二水戰司令官 清霜 通報 GF長官 GKF長官 第一輸送戰隊司令官 南西方面部隊電令作第八一八號ニ依ル駆逐艦一隻ヲ第二駆逐隊(清霜)ニ指定ス|信號(無電) 〕
  18. ^ 12月23日には草鹿参謀長、神重徳参謀、淵田美津雄航空参謀が空路でマニラに乗り込み、現地陸海軍との調整をおこなった[158][159]
  19. ^ NSB電令作第838号[161](20日0819番電)一 第二遊撃部隊指揮官ハ左ニヨリ「サンホセ」突入作戦ヲ実施スベシ 編制及行動予定ヲ予メ報告スルト共ニ関係各部ニ通報スベシ/指揮官 二水戦司令官/兵力 巡洋艦一隻乃至二隻 駆逐艦四乃至六隻/突入期日 十二月二十二日以降ナルベク速ニ夜半突入 本作戦中 杉、樫、榧ヲ一時第二遊撃部隊ニ編入ス 〕
  20. ^ 12月20日時点でサンジャック所在艦艇(足柄、日向、伊勢、大淀、朝霜、清霜、杉、樫、榧、日栄丸など)、サンジャック南南西約330浬に妙高救援部隊[162](羽黒、妙高、霞、初霜、海防艦千振など)[163]
  21. ^ 礼号作戦終了後の1945年(昭和20年)1月1日、シンガポールで第二遊撃部隊旗艦は「日向」から「足柄」に復帰した[165]
  22. ^ (旗艦、司令部所在地変遷)[180](将旗)ノ掲揚 一二.二二「マニラ」海軍本部/二四 二九)樅/一二.三〇 一.二二)樫/一.二三 二.二四)高雄警備府/二.二八 三.一七)(呉)/三.一八花月三.一五 2Fニ編入(以下略)。
  23. ^ マニラに戻った第2駆逐隊(檜、樫)は1945年(昭和20年)1月5日に「樅」が、1月7日に「檜」が撃沈され、岩上大佐(第52駆逐隊司令)も戦死した[181][182]
  24. ^ 第二遊撃部隊=南方輸送路の支援及び好機比島方面敵進攻部隊の撃滅、警戒部隊=台湾海峡及びルソン海峡方面敵潜掃蕩及び台湾ルソン間作戦輸送、第一輸送戦隊=台湾ルソン間作戦輸送、潜水部隊=比島方面作戦[186]

脚注 編集

  1. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, pp.7
  2. ^ a b 福井静夫、日本駆逐艦物語 1993, p. 291(I 一等駆逐艦つづき)杉(Ⅱ)Sugi
  3. ^ 戦史叢書88 1975, pp. 52–56駆逐艦(丁)
  4. ^ 福井静夫、日本駆逐艦物語 1993, pp. 74–77〈樺型〉
  5. ^ 福井静夫、日本駆逐艦物語 1993, p. 294(II 二等駆逐艦つづき)杉(I)Sugi
  6. ^ a b #達昭和19年6月 pp.3-4〔 達第百八十一號 昭和十八年度及昭和十九年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻、潜水艦二隻及海防艦九隻ニ左ノ通命名ス 昭和十九年六月五日 海軍大臣嶋田繁太郎|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 杉(スギ) 第三十六號海防艦 第四十號海防艦|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 槇(マキ) 第六十一號海防艦|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 樅(モミ) 伊號第三百七十二潜水艦|呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第四百四潜水艦|日立造船所株式會社ニ於テ建造 海防艦 大東(ダイトウ)
  7. ^ a b 陽炎型(光人社) 2014, p. 332杉(すぎ)
  8. ^ a b #S1906十一水戦日誌(3) p.30〔 杉クカ(宛略)機密第二五一六〇〇番電 一.竣工受領セリ/二.本艦明二十六日〇九〇〇大阪発二十七日一七〇〇内海西部着ノ豫定|無電 〕、〔 二十六日一八五七軍令部総長(宛略)機密第二六一八五七番電 八月二十五日附 杉ヲ11Sdニ編入ス|無電 〕
  9. ^ #S1906十一水戦日誌(4) pp.25-26
  10. ^ a b 戦史叢書56 1972, pp. 82–85作戦要領
  11. ^ a b 戦史叢書56 1972, p. 240.
  12. ^ a b 戦史叢書93 1976, pp. 73–74南西方面艦隊、駆逐艦の不足を訴う
  13. ^ a b #S19.9-12秘海軍公報号外/11月(3) pp.4-5〔 内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日 海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ| |第五十二驅逐隊|桑、檜、樅、杉、樫| |第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル 〕
  14. ^ a b 戦史叢書56 1972, p. 563a第八次多号作戦
  15. ^ a b 岸見勇美 2010, pp. 105–109駆逐艦「杉」孤独な闘い
  16. ^ a b 戦史叢書56 1972, p. 585禮号作戦実施計画
  17. ^ a b 戦史叢書93 1976, pp. 108–109水上部隊、ミンドロに突入す ― 礼号作戦
  18. ^ a b 昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和20年1月 」 アジア歴史資料センター Ref.C16120660400  p.10(昭和20年1月)〔 21|1100|杉、樫、梅ハ高雄ニ於テ敵艦上機約50ト交戰其ノ6(飛行機)ヲ撃墜 春風ハ馬公ニ於テ4(飛行機)ト交戰 杉、樫、春風ハ若干ノ被害ヲ受ク 〕
  19. ^ a b 歴群51、真実の艦艇史(2) 2005, p. 140a旧駆逐艦「杉」(接一〇号)
  20. ^ a b c 戦史叢書88 1975, p. 55第5487号艦(杉)
  21. ^ #内令昭和19年6月 pp.6-7〔 内令第七百三十八號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十九年六月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等松型ノ項中「桑」ノ下ニ「、杉、槇、樅」ヲ加フ(以下略) 〕
  22. ^ a b 昭和19年7月21日(発令7月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1541号 p.7」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100100 
  23. ^ 昭和19年8月~9月 秘海軍公報(防衛省防衛研究所)8月(5)/秘海軍公報 第4784号 昭和19年8月27日 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070496300  p.45〔 内令第九九五號 驅逐艦 杉 右本籍ヲ佐世保鎭守府ト定メラル/第三十四號海防艦 右本籍ヲ横須賀鎭守府ト定メラル 横須賀鎭守府在籍 第三十四號海防艦 右警備海防艦ト定メラル/第四十二號海防艦 右本籍ヲ佐世保鎭守府ト定メラル 佐世保鎭守府在籍 第四十二號海防艦 右警備海防艦ト定メラル/第十一號輸送艦 第十二號輸送艦 右本籍ヲ佐世保鎭守府ト定メラル 昭和十九年八月二十五日 海軍大臣 〕
  24. ^ a b c 昭和19年8月31日(発令8月25日付)海軍辞令公報(甲)第1580号 p.20」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100700 
  25. ^ 昭和19年8月~9月 秘海軍公報(防衛省防衛研究所)9月(1)/秘海軍公報 第4793号 昭和19年9月7日 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070496600  p.36〔○事務所撤去 驅逐艦杉艤装員事務所ハ八月二十五日之ヲ撤去セリ 〕
  26. ^ #S1906十一水戦日誌(3) pp.6-7(十一水戦将校官氏名)
  27. ^ #S1906十一水戦日誌(3) p.39(作戦経過概要、8月25日)〔 杉11Sdニ編入 〕
  28. ^ #S1906十一水戦日誌(3) p.8〔 二日(司令官)11Sd|二日〇八三〇扶桑、桑〔呉鎭〕|11Sd信令第二〇號 一.明三日一三〇〇将旗ヲ桑ニ移揚ス/二.本職桑ヲ率ヰ一三一五出港桂島ニ回航ノ豫定|信號 〕、同部隊戦時日誌 p.11〔 三日一三〇五(司令官)11Sd(宛略)機密第〇三一三〇五番電 将旗ヲ桑ニ移揚セリ|無電 〕、同部隊戦時日誌 p.34(作戦経過概要、8月3日)〔 一三〇〇将旗ヲ扶桑ヨリ桑ニ移揚 〕
  29. ^ a b #S1906十一水戦日誌(3) pp.3-4(昭和19年8月、十一水戦軍隊区分)
  30. ^ #S1906十一水戦日誌(3) p.33〔 三十日〇〇〇〇軍令部總長(宛略)|機密第三〇〇〇〇〇番電 多摩ヲ21Sヨリ除キ11Sdニ編入ス|無電 〕〔 三十一日〇七二八(宛略)|機密第三一〇七二八番電 八月三十日旗艦ヲ多摩ニ変更セリ|〃 〕
  31. ^ #S1906十一水戦日誌(3) p.5〔 (四)麾下艦船竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動 〕(昭和19年8月)
  32. ^ #S1906十一水戦日誌(3) p.42(昭和19年9月、十一水戦軍隊区分)
  33. ^ #S1906十一水戦日誌(3) p.58(作戦経過概要、9月20日)〔 〇五四〇11Sd桂島出動|2YB 11Sd出動諸訓練 〕
  34. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 373–374第二遊撃部隊(第五艦隊)/訓練等
  35. ^ #S1906十一水戦日誌(3) p.43〔 (四)麾下艦船ノ行動 〕(昭和19年9月)
  36. ^ a b #S1906十一水戦日誌(4) p.5〔 (四)麾下艦船ノ行動 〕(昭和19年10月)
  37. ^ #S1906十一水戦日誌(4) pp.23-24〔 (長官)KdB(宛略)機密第一五〇六四七番電 KdB及電令作第五七號 秋月及第十一水雷戰隊司令官所定ノ駆逐艦一隻ハ先任艦長之ヲ指揮 大海戰力補給部ノ指定スル兵器彈藥ヲ速ニ呉ヨリ鹿児島ニ輸送スベシ|無電 〕〔 (司令官)11Sd|杉〔KdB長官 秋月 大海戰力補給部〕|機密第一五一二三四番電 11Sd信電令作第一號 杉ハKdB電令作第五七號ニ依ル任務ニ從事スベシ|無電 〕
  38. ^ 激闘駆逐艦隊 1987, pp. 123–124.
  39. ^ #捷号(4)十戦隊日誌 p.22〔 一六 〇八五六(長官)KdB(宛略)KdB機密第一六〇八五六番電 機動部隊電令作第八號 若月 凉月ハ先任艦長之ヲ指揮 六五三空人員並ニ基地物件ヲ速ニ高雄ニ輸送シタル後内海西部ニ歸投スベシ|信電 〕
  40. ^ a b #S1906十一水戦日誌(4) pp.39-40(作戦経過概要、10月16日)〔 杉一四〇〇呉発 〕(10月17日)〔 多摩 檜 樅 樫 榧一二〇〇岩国沖発〇二五〇〇呉着 杉一二〇〇鹿児島着 〕(10月18日)〔 多摩一五〇〇呉発八島ニ回航(出撃) 杉〇八〇〇鹿児島発|一〇〇〇将旗ヲ檜ニ移揚 〕(10月19日)〔 〇六〇〇杉呉着 杉一六〇〇呉発 八島ニ回航(出撃) 〕
  41. ^ 昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2(防衛省防衛研究所)/昭和19年10月 」 アジア歴史資料センター Ref.C16120660100 p.5(昭和19年10月)〔 16|2200頃|凉月都井崎沖合ニ於テ(潜水艦)(魚雷)×1ヲ受ケ引返ヘセリ 〕
  42. ^ 歴群23、秋月型 1999, pp. 159–160「涼月」(秋月型、2701t)
  43. ^ #S1906十一水戦日誌(4) p.24〔 (長官)KdB(宛略)機密第一七〇六三三番電 KdB及電令作第五八號 一.杉ハ任務終了セバ速ニ呉ニ回航スベシ/二.涼月ハ呉ニ回航物件ヲ杉ニ搭載スベシ/三.若月 杉ハ若月駆逐艦長之ヲ指揮シ搭載物件ヲ速ニ高雄ニ輸送スベシ|無電 〕、#捷号(4)十戦隊日誌 p.24(機動部隊電令作第58号)
  44. ^ #捷号(4)十戦隊日誌 p.17〔 一七 〇九三〇(長官)GF(宛略)GF機密第一七〇九三〇番電 聯合艦隊電令作第四六六號 若月 凉月ハ搭載物件ヲ鹿児島ニ於テ鹿島 三十駆ニ移載ノ上内海西部ニ皈投スベシ 鹿島及三十駆ノ搭載力不足ノ場合ニハ台湾行対空兵器彈藥ノ一部ヲ卸スモノトス|信電 〕
  45. ^ #S1906十一水戦日誌(4) p.25〔 秋月(宛略)機密第一七一二〇〇番電 発秋月駆逐艦長 秋月 杉 鹿児島着|無電 〕
  46. ^ 戦史叢書41 1970, pp. 239–244スルアン島来攻(十七日)
  47. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 21–23寝耳に水の、敵スルアン上陸
  48. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 25–26捷一号警戒の発令
  49. ^ #S1906十一水戦日誌(4) p.25〔 (長官)KdB|若月 涼月 杉(宛略)|機密第一七一二一三番電 KdB及電令作第五九號 KdB電令作第五八號ヲ取消ス 若月ハ徳山ニ於テ補給ノ上KdMB電令作第七號ニ應ズル如ク行動スベシ|無電 〕
  50. ^ #S1906三十駆日誌(3) p.3(作戦経過概要、昭和19年10月)(17日)〔 〇六〇〇夕月卯月鹿児島ニ向ケ佐世保発同日着(彈藥搭載) 〕(19日)〔 夕月卯月鹿島護衛高雄ニ向ケ作戰輸送ノ爲鹿児島出港 秋風出渠五番浮標ニ繋留 〕(22日)〔 夕月卯月高雄入港/一五二〇秋風 仁榮丸護衛奄美大島ニ向ケ呉出港 夕月卯月高雄出港(鹿島護衛) 〕
  51. ^ 歴群64、睦月型 2008, p. 152.
  52. ^ 戦史叢書41 1970, pp. 244–252捷一号発動(十八日)
  53. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 33–36大本營、比島方面決戦実施を指示
  54. ^ 日本空母戦史 1977, pp. 723–724.
  55. ^ 日本空母戦史 1977, pp. 717–718十月十五日の追撃戦
  56. ^ 福田幸弘 1981, pp. 103–106台湾沖航空戦
  57. ^ 戦史叢書37 1970, pp. 677–678聯合艦隊司令長官、残敵殲滅を命令
  58. ^ a b 戦史叢書56 1972, p. 78a十一水戦
  59. ^ a b 戦史叢書56 1972, pp. 78a-79第三十一戦隊
  60. ^ 日本空母戦史 1977, pp. 725–726.
  61. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 27–29機動部隊本隊に対する指導
  62. ^ 大内、航空戦艦 2014, p. 90.
  63. ^ 日本空母戦史 1977, p. 728.
  64. ^ 戦史叢書88 1975, pp. 102–104.
  65. ^ 『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036600, pp.24
  66. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 154–156機動部隊本隊の作戦行動/頻繁に敵潜水艦を探知
  67. ^ 戦史叢書56 1972, p. 155.
  68. ^ 日向、追憶 1977, p. 97.
  69. ^ 激闘駆逐艦隊 1987, pp. 128–129比島沖海戦
  70. ^ 日本空母戦史 1977, p. 749.
  71. ^ 『松型駆逐艦「桐」』, pp.51
  72. ^ 『艦長たちの太平洋戦争<続篇>』, pp.245。尚、同証言内においても川畑元桐艦長は合流した部隊が米軍のものであるとの認識を示している。
  73. ^ 『松型駆逐艦「桐」』, pp.52
  74. ^ a b 雨倉, 96ページ
  75. ^ 『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036600, pp.39
  76. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 241–242.
  77. ^ 戦史叢書56 1972, p. 452.
  78. ^ 戦史叢書56 1972, p. 454.
  79. ^ 『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036700, pp.12
  80. ^ 補助艦艇奮戦記 2016, p. 274室戸(むろと/運送艦)
  81. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.34
  82. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 443–444米側資料による「多摩」の最期
  83. ^ #S1906十一水戦日誌(4) p.47〔 (四)麾下艦船竝ニ一時編入艦船ノ行動 〕(昭和19年11月)
  84. ^ #S1906十一水戦日誌(4) p.53〔 (司令官)31S(宛略)機密第〇五一五三〇番電 発31S司令官 通報 上根 下防 門司在勤武官/31S(五十鈴、梅、桃、桐) 4Sf(日向伊勢)霜月 涼月 桑 杉 左ニ依リ「マニラ」ニ向フ對潜警戒ニ関シ手配ヲ得度 一.日向 梅 桃 杉 七日〇三三〇六連発一四三〇佐世保着九日〇三〇〇佐世保発〇八三〇古志岐島ノ〇度一二浬ニ於テ五十鈴ニ合同ス/二.五十鈴 伊勢 駆逐艦四 九日〇二一五 六連発 〕
  85. ^ #S1907十戦隊日誌(3) p.35〔 (2)霜月 内海西部方面ニアリテ警戒待機中ノ所第四航空戰隊第三十一戰隊ト共ニ八日出撃「ブルネイ」ニ回航中 〕
  86. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.53
  87. ^ a b #S1907十戦隊日誌(3) p.42
  88. ^ 激闘駆逐艦隊 1987, pp. 132–134凉月の突貫工事間に合わず
  89. ^ a b 日向、追憶 1977, p. 92.
  90. ^ 野村, pp.9
  91. ^ 秋月型(光人社) & 2015), pp. 309–310僚艦沈没の非報しきり
  92. ^ 昭和19年12月24日(発令11月29日付)海軍辞令公報(甲)第1660号 p.48」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102100 
  93. ^ a b 戦史叢書93 1976, p. 69.
  94. ^ 佐藤、艦長続篇 1995, p. 72乗員の意気ますます軒昂
  95. ^ 昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2(防衛省防衛研究所)/昭和19年11月 」 アジア歴史資料センター Ref.C16120660200 p.7(昭和19年11月)〔 19|0330|五十鈴コレヒドール西方55′ニ於テ(魚雷)1本舟尾ニ命中舟尾舵共ニ切断| |現在16K航行可能 〕
  96. ^ 戦史叢書54 1972, pp. 454a-455水上兵力の漸減
  97. ^ 木俣『日本水雷戦史』586ページ
  98. ^ 戦史叢書93 1976, p. 74.
  99. ^ 佐藤、艦長続篇 1995, pp. 249–251粛然とした「桑」の沈没
  100. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.45-46(昭和19年11月、十一水戦軍隊区分)
  101. ^ a b 戦史叢書93 1976, pp. 67–69第一水雷戦隊の解隊と第三十一戦隊の第五艦隊編入
  102. ^ 『第五艦隊戦時日誌』C08030019800, pp.20〔 (海軍大臣)二五日附 駆逐艦編制中左ノ通改正セラル「43dgノ項中ニ榧ヲ加フ」|無電 〕〔(海軍大臣)十一月二十五日附帝國海軍戰時編制中左ノ通改正セラル 一.52dgヲ11sdヨリ除キ31Sニ編入/二.榧ヲ11Sdヨリ除キ43dgニ編入|無電 〕、『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.66(昭和19年11月)〔 二五|(略)|52dgヲ11Sdヨリ除キ31Sニ編入 榧ヲ11Sdヨリ除キ43dgニ編入 櫻11Sd編入 〕
  103. ^ 戦史叢書46 1971, pp. 446a-447米潜水艦に撃沈されたわが駆逐艦一覧表
  104. ^ 激闘駆逐艦隊 1987, pp. 134–135霜月の最期
  105. ^ a b 戦史叢書54 1972, pp. 454–455水上兵力の漸減
  106. ^ 昭和19年12月6日(発令12月1日付)海軍辞令公報(甲)第1661号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102200 
  107. ^ 戦史叢書46 1971, pp. 330–332第三十一戦隊の編成
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    • 『第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年八月一日至昭和十九年八月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』『自昭和十九年九月一日至昭和十九年九月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(3))』。Ref.C08030127600。 
    • 『第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年十月一日至昭和十九年十月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(4))』。Ref.C08030127700。 
    • 第一機動艦隊司令部『昭和十九年十一月十日 機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報 自昭和十九年十月二十日至同年十月二十九日 比島沖海戦』(昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030036600、C08030036700
    • 軍艦千歳『自昭和十九年十月二十日至昭和十九年十月二十五日 捷一号作戦戦闘詳報』(昭和19年10月20日~昭和19年10月25日 軍艦千歳捷1号作戦戦闘詳報) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030582500
    • 第五艦隊司令部『自昭和十九年十二月一日至昭和十九年十二月三十一日 第五艦隊(第三遊撃部隊)戦時日誌』(昭和19年11月1日~昭和20年2月5日 第5艦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030019900
    • 礼号作戦挺身部隊 (第二水雷戦隊司令部)『礼号作戦戦闘詳報 (自昭和十九年十二月二十日至同年十二月三十日)』(昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030102600
    • 第三十一戦隊司令部『自昭和十九年十二月二十二日至昭和二十年一月三十一日 第三十一戦隊戦時日誌』(昭和19年12月22日~昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030074800
    • 第三十一戦隊司令部『自昭和二十年二月一日至昭和二十年三月三十一日 第三十一戦隊戦時日誌』『自昭和二十年四月一日至昭和二十年四月三十日 第三十一戦隊戦時日誌』(昭和19年12月22日~昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030074900

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