ハーミーズ (空母・初代)

ハーミーズ (HMS Hermes, 95) は[4]イギリス海軍航空母艦[注釈 1]。計画時から車輪つき航空機を運用する空母として建造された、世界ではじめての軍艦である[6][7][注釈 2]ハーミス[9][注釈 3]ハームス[11][注釈 4]ハーミズ[13]ヘルメス[14][15]とも表記される。公刊戦史『戦史叢書』ではハーメスを用いる[16][17]。艦名は、ギリシア神話に登場するヘルメースの英語読み[注釈 5]

ハーミーズ/ハーミス[1][2]
竣工時のハーミーズ(HMS Hermes(95)。
基本情報
建造所アームストロング・ホイットワース社造船所
運用者 イギリス海軍
艦種航空母艦
級名同型艦なし
前級イーグル (空母・初代)
次級アーク・ロイヤル (空母・初代)
艦歴
起工1918年1月15日
進水1919年9月11日
就役1924年2月18日
最期1942年4月9日に戦没
要目
基準排水量10,850 トン
満載排水量13,700 トン
全長182.3 m
最大幅21.3 m
飛行甲板182.3m×27.4m
吃水5.71 m(満載)
機関蒸気タービン
ボイラーヤーロー重油専焼水管缶6基
主機パーソンズオール・ギヤードタービン2基
推進2軸
出力40,000hp
最大速力25.0ノット[3]
燃料重油:2,000トン
航続距離2,930海里/18ノット
乗員664名(航空要員含む)
兵装Mark XII 14cm(45口径)単装速射砲6基
10.2cm(45口径)単装高角砲4基
3ポンド(76.2cm)単装砲4基
装甲舷側:51~76mm(水線部)
主甲板:25mm
主砲防盾:76mm(最厚部)
搭載機20機(1939年:12機)
テンプレートを表示

ハーミーズは黎明期の空母であるが[8]、技術的には高い先見性をもっていた[20]。しかし小型空母のために搭載機が20機程度しかなく、しかも25ノットの低速であり、飛行機搭載母艦としての性能には限界があった[21]海軍休日時代、中国艦隊The China Station)に所属していたハーミーズは[注釈 6]、しばしば日本に来訪している[23]

1942年(昭和17年)4月9日東洋艦隊に所属してセイロン島東岸トリンコマリー沿岸を航行中[24]、日本海軍機動部隊の空襲を受けて随伴駆逐艦と共に沈没した[25]セイロン島沖海戦[26][注釈 7]

建造経緯 編集

世界の航空母艦開発をリードしていたのは、イギリスだった[28][29]第一次世界大戦ユトランド沖海戦では、イギリス海軍の水上機母艦エンガーダイン (HMS Engadine) がグランド・フリートに随伴し、航空機による偵察をおこなっている[30]。航空機の有効性が認められると、イギリス海軍とアメリカ海軍は装甲巡洋艦や旧式戦艦に滑走台を設置して、陸上機を発進させる実験をはじめた[19]。この場合は「発艦」出来ても「着艦」することは出来ず、発進した航空機は陸上基地に向かうか、着水して搭乗員のみ回収する方法をとった[31]

航空機の軍艦への「着艦」を実用化したのも、イギリスだった。イギリスは超大型巡洋艦改造してフューリアス (HMS Furious, 47) を[32]大型巡洋艦を改造してヴィンディクティヴ (HMS Vindictive) を送り出した[33]。特にヴィンディクティヴは艦の前方と後方に飛行甲板を備えている[34][注釈 8]。だが2隻とも艦中央部に構造物(艦橋、煙突、マスト)が聳え、航空機の着艦は不便かつ危険きわまりなかった[34]。「航空母艦」として見た場合、完成度が高いとはいえなかった[37]

実質的な世界最初の空母は、イタリア向けに建造中だった貨客船をイギリス海軍が空母に改造したアーガス (HMS Argus, I49) である[38][39]。アーガスは全通式飛行甲板をもつ、いわゆるフラッシュデッキ型空母であった[40][20]。つづいて未完成戦艦を空母に改造し[注釈 9]、22,000トン級空母イーグル (HMS Eagle) が誕生した[43][注釈 10]。イーグルは、全通飛行甲板の右舷に煙突と一体化した島型艦橋を設置した世界最初の空母であり、世界の空母の基本形となった[45][46]。なおイーグルとハーミーズの設計を手掛けたのが、海軍造船局長サー・ユースタス・テニスン・ダインコート (Eustace Tennyson d'Eyncourt) であった[47]

ハーミーズは、最初から空母として建造された世界初の軍艦である[48][注釈 11]。1918年(大正7年)1月15日ニューカッスルアームストロング・ホイットワース社で起工。1919年(大正8年)9月11日、進水[注釈 12]第一次世界大戦の終結により急いで完成させる必要がなくなり、先行艦(アーガス、イーグル)の運用実績を考慮に入れつつ、慎重に工事が行われた[21]。また職工の雇用問題が絡んだため、進水後のハーミーズはデヴォンポート基地に曳航されて移動し、同地の海軍工廠で艤装工事がおこなわれた[注釈 12]

ちょうどデヴォンポート海軍工廠では日本海軍の造船士官(藤本喜久雄少佐、福田啓二大尉)が実習中であり[51]、ハーミーズの情報を入手することが出来た[注釈 12]。これらの各種情報収集や、センピル教育団の協力により、日本海軍はイギリス空母の研究をおこなうことが出来た[48]。結局、1919年(大正8年)12月に建造がはじまった空母鳳翔の方が[52]、参考にしたハーミズより早く完成してしまった[注釈 13]。このため鳳翔を「世界で最初に竣工した、最初から航空母艦として設計された純粋な空母」と表現する資料もある[56][57][注釈 14]。ハーミーズは1924年(大正13年)2月18日に竣工した。

艦形 編集

1924年にオアフ島ホノルルで撮られたハーミーズ。

ハーミーズは前述の通り、最初から航空母艦として建造された艦であるが[21]、設計に際し先に竣工したアーガスイーグルの運用結果を参考にしている[59][注釈 15]。そのため、ハーミーズはイーグルを小型化したような外観となっている[61]。基準排水量1万トン台の小型の船体を有効に活用すべく艦首形状は艦首と飛行甲板の間に隙間のない「エンクローズド・バウ」(ハリケーン・バウ)を採用し、艦首の先端までを飛行甲板に使えた[23][46]。この工夫により超弩級戦艦を改装したイーグルの飛行甲板長198.2mと変わらない飛行甲板長182.3mを達成した[62]。エレベーターは飛行機の形状にあわせたT字型のものを1基備え、改装時に1基増設した[21]。格納庫は一段である[23]

1938年に撮られたハーミーズ。舷側部に主砲の14cm速射砲が見えるほか、甲板上にも10.2cm単装高角砲がみえる。

初期の航空母艦は、空母アーガス[63]ラングレー[64]に代表される平甲板型(フラッシュデッキ型)と、空母イーグルを元祖とする艦橋と煙突を舷側にあつめた島型(アイランド型)に大別できる[65][注釈 16]。ハーミーズは、アイランド型(島型艦橋)である[67][注釈 17]。建造当初から、小柄な船体に不似合いな程に大きなアイランド式の艦橋が特徴で、アンバランスな印象も与えたといわれる[68]。巡洋艦クラスとの戦闘を考えて島型艦橋を基部として三脚型のマストが立ち、頂上の射撃指揮所の左右に測距儀をそなえる頑丈なものである。これにより頂上部の高さは水面上から35mもあり、これは同世代の巡洋艦ホーキンス級のマスト高さ28mを凌駕するものである。しかし、艦橋が大型すぎることからくるトップヘビーになりがちなハーミーズはバランスを取るために搭載燃料の使い勝手が悪かった。このため、左舷側バルジに常に海水を充填していた[68]

主砲には軽巡洋艦クラスの「Mark XII 14cm(45口径)速射砲」を採用、これを防盾の付いた単装砲架で舷側の三箇所に設けられたスポンソン(張り出し)に1基ずつで片舷3基ずつ計6門搭載した。アイランド後方には、艦載機搭載用のクレーンが1基配置されているのが外観上の特徴である[69]。なお、艦尾甲板は水上機を運用するために乾舷の高さは水面からを約3mと低く抑えられており、そこから水上機を海面に下ろして運用した[68]

搭載機変遷 編集

  • 1924年:計19機。フェアリー・フライキャッチャー7機、フェアリー III F型8機、ブラックバーン・ダート4機
  • 1935年:計15機。ホーカー・オスプレイ6機、フェアリー・シール9機
  • 1939年9月以降:計12機。フェアリー・ソードフィッシュ12機

兵装 編集

ハーミーズの主武装として「アームストロング Mark XII 14cm(45口径)速射砲」を採用した。その性能は37.2kgの砲弾を仰角25度で14,630mまで届かせる射程を得ていた。この砲を防盾の付いた単装砲架で6基を搭載した。砲架の俯仰能力は仰角27度・俯角7度である。旋回角度は300度の旋回角度を持つ。発射速度はカタログデーターは毎分8発であるが実用速度は6発程度であった。

他に対空火器として高角砲は「アームストロング Mark V 10,2cm(45口径)高角砲」を採用している。14.6kgの砲弾を仰角44度で15,020m、最大仰角80度で9,450mの高度まで到達させることができた。単装砲架は左右方向に180度旋回でき、俯仰は仰角80度、俯角5度で発射速度は毎分10~15発だった。これを単装砲架で3基を搭載した。他に近接火器として「アームストロング 7.62cm(40口径)速射砲」を単装砲架で4基、12.7mm連装機銃4基を搭載した。

就役後の1927年に10.2cm単装高角砲1基を撤去して「ヴィッカーズ 4cm(39口径)ポンポン砲」を単装砲架で2基を追加したが1932年に撤去して、替りに12.7mm四連装機銃2基に換装した。1941年に4cmポンポン砲を新型砲架の四連装砲架で1基を追加し、新たに「エリコン 2cm(76口径)機関砲」を単装砲架で5基を追加した。

防御 編集

防御力は対巡洋艦戦闘を意識して舷側防御は水線部で76mm、主甲板は25mmの装甲を持っていた。

機関 編集

ハーミーズの機関構成は、D級軽巡洋艦と同等のヤーロー重油専焼細経水管缶6基と1段減速のパーソンズギヤード・タービン2基2軸推進で最大出力40,000馬力で速力25.0ノットを発揮した。

ボイラー室は前後2室で1番缶室に4基・2番缶室に2基を搭載し、排煙はイーグルに倣って直立型の1本煙突で排出された。タービン室はボイラー室と隔壁1つ分空けて後方に配置され推進用タービンを並列で2基・後側の減速用歯車を介して推進軸2本と接続された。[70]

艦歴 編集

海軍休日時代 編集

1924年(大正13年)2月18日、ハーミーズは竣工した。ワシントン会議ワシントン海軍軍縮条約により、イギリスは空母6隻(アーガス、イーグル、ハーミーズ、フュリアス、グローリアスカレイジャス)を有する世界最大の空母大国となった[71][注釈 18]。ただしイギリス海軍の空母に対する迷いが反映されたので、各艦の外観と性能はバラバラで統一性がなかった[73]

第二次世界大戦 編集

1942年に撮られたハーミーズ。飛行甲板上にはフェアリー・ソードフィッシュ雷撃機が見える。右前方の重巡洋艦ドーセットシャー

1939年(昭和14年)初めハーミーズは短期間修理を受け、8月23日にはF. E. P. Hutton大佐が艦長になった。その翌日ハーミーズは再就役し、9月1日に第814飛行隊のソードフィッシュ12機を搭載した。第二次世界大戦が始まった直後の9月中旬は、ブリテン諸島近海のウエスタンアプローチで対潜哨戒に従事した[注釈 19][注釈 20]18日、ハーミーズは潜水艦を発見したが、護衛の駆逐艦アイシス (HMS Isis) とイモージェン (HMS Imogen, D44) による攻撃は効果がなかった。イギリス海軍は、対潜哨戒任務に空母を投入するのを止める[76]。ハーミーズはデヴォンポートへの帰還を命じられ、そこで短期間の修理を受ける際に消磁装置が備え付けられた。

9月下旬よりドイッチュラント級装甲艦[77](通称ポケット戦艦[78]アドミラル・グラーフ・シュペー (Die Admiral Graf Spee) が南大西洋で本格的に活動を開始した[79][80]。10月上旬、イギリス海軍はドイツ通商破壊艦が南大西洋にいることに気付き、敵艦が「ポケット戦艦」であると認定した[81]。ポケット戦艦を捜索して掃討するために複数の任務部隊が編成される[82]。本艦とフランス海軍の戦艦ストラスブール (Strasbourg) は「N部隊」となった[83]。出撃したハーミーズは10月7日にストラスブールと会合し、同月16日にフランス領西アフリカダカールに到着する。つづいてイギリス海軍本部は任務部隊の区分を変更し、英艦(空母ハーミーズ、軽巡ネプチューン)とフランス艦(ストラスブール、デュプレクスフォッシュアルジェリー)でX部隊とY部隊を編成した[84]。X部隊とY部隊は大西洋で北上するであろうシュペーを待ち構えた[85]。12月2日と3日、シュペーは南西アフリカ沖合で商船2隻(トリックスタータイロア)を相次いで撃沈したが、商船は沈没前に襲撃地点と敵ポケット戦艦の存在を打電していた[86]南大西洋艦隊司令官リヨン提督は、指揮下の掃討部隊を再配置する[86]。X部隊(空母ハーミーズ、重巡デュプレクス、フォッシュ、駆逐艦ミランカサール英語版フランス語版)と増援部隊(軽巡ネプチューン、駆逐艦ハーディホスタイルヒーロー)に対し、12月10日から13日にかけてフリータウン~ペルナンブコ間を哨戒するよう命じた[87]。12月13日のラプラタ沖海戦で損傷したシュペーがウルグアイモンテビデオに逃げ込んだ時、X部隊とY部隊は遙か北方に位置していた[88]。17日にシュペーが自沈して[89]、南大西洋の追跡劇はひとまず終わった。ハーミーズは船団を護衛してイギリスに戻り1940年(昭和15年)1月9日から2月10日まで修理を受けた。それから再びダカールに戻り、ドイツ通商破壊艦や封鎖突破船捜索を再開した。[90]

5月25日に艦長がRichard F. J. Onslow大佐に替わり、ハーミーズは成果のない哨戒を続けた。6月22日、ドイツのフランス侵攻により独仏休戦協定が結ばれ、ヨーロッパの戦局が激変する。6月29日に帰投したハーミーズは到着9時間後に出港し、ダカールの封鎖を開始するよう命じられた。それはセネガルの総督がヴィシーフランス側についたためである。ダカールにはフランス海軍の新鋭戦艦リシュリュー (Richelieu) が入港しており、イギリス軍は対処を迫られていた[15]7月3日、イギリス海軍のH部隊アルジェリアメルス・エル・ケビール軍港を強襲して、フランス海軍のダンケルク級戦艦を排除しようとした(メルセルケビール海戦[91]。次にハーミーズと重巡2隻(オーストラリア、ドーセットシャー)がダカールのリシュリューを無力化しようとする[91]。7月7日、8日の夜、第814飛行隊のソードフィッシュによる雷撃にあわせて、ハーミーズから発進したボートがの艦尾下に爆雷4発の投下を試みた。ボートはリシュリューのもとにたどり着くことには成功したが、爆雷は爆発しなかった。雷撃では成果があり、リシュリューのプロペラ一つを損傷させた[91]。フランス軍機が何度かイギリス軍部隊を攻撃したが、成果はなかった。攻撃からの帰路、7月10日夜に暴風雨の中、仮装巡洋艦補助巡洋艦コルフ (HMS Corfu) と衝突した。衝撃によりハーミーズの乗員3名が負傷し、一人はその傷がもとで死亡した。一方、コルフ側には負傷者はいなかった。リシュリューの始末はジョン・カニンガム提督のイギリス艦隊に任された[91]ダカール沖海戦)。ハーミーズは12ノットでフリータウンへ向かい、8月5日に南アフリカ行き船団に加わって8月17日からサイモンズタウンで修理を開始した。修理は11月2日に完了し、ハーミーズは11月29日にフリータウンに戻った[92]

南大西洋でのドイツ通商破壊艦捜索のため12月2日にダナイー級軽巡洋艦ドラゴン英語版 (HMS Dragon,D46) と合流する。同月中は主にセントヘレナから行動し、後にポケット戦艦アドミラル・シェーア (Admiral Scheer) 捜索のため武装商船プレトリア・キャッスル (HMS Pretoria Castle, F61) が加えられたが、成果は無かった。この部隊は12月31日にサイモンズタウンへ向け出発し、ハーミーズは南アフリカ沿岸でのヴィシーフランス封鎖突破船捜索に派遣された。1941年(昭和16年)1月26日に1隻が発見されたが、その船はマダガスカルに戻った。2月4日、巡洋艦シュロプシャー (HMS Shropshire, 73) およびホーキンス英語版 (HMS Hawkins,D86) と合流するため北上する。それはキスマヨ封鎖を行うためであった。2月12日、ハーミーズが1隻、ホーキンスが3隻のイタリア商船を拿捕した[93]

2月22日、ハーミーズは軽巡グラスゴー (HMS Glasgow, C21) の搭載機により発見されたアドミラル・シェーア捜索に参加したが、捕捉はできなかった[94]。ハーミーズは3月4日にコロンボに着き、以後も枢軸国艦船捜索を続行した。4月にはイラクのバスラでの作戦支援のためペルシャ湾へ派遣され、6月中旬までそこにとどまった後セイロン島セイシェル諸島間の哨戒に戻った。哨戒任務を続けたハーミーズは11月19日に修理のためサイモンズタウンに着いた。

イギリスは緊迫する極東情勢に呼応して東洋艦隊に主力艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズレパルス)を増強し、その直衛空母としてイラストリアス級航空母艦インドミタブル (HMS Indomitable, 92) を編入した[14]。ところが基礎訓練中に座礁して修理が必要となり、代艦としてインド洋所在のハーミーズが編入された[14]

12月8日、ハーミーズの修理中に大日本帝国が連合国が宣戦を布告し、太平洋戦争がはじまる。日本軍は極東において南方作戦マレー作戦比島作戦)を発動し、マレー半島英領に侵攻した[95]。イギリス軍のシンガポール防衛計画は不充分であり、航空機の掩護を受けられなかった東洋艦隊はマレー沖海戦主力艦2隻を失う[96][注釈 21]。極東のイギリス軍が窮地に陥る中、本艦の修理には1942年(昭和17年)1月31日までかかった。ハーミーズは東洋艦隊[注釈 22]に配属され、2月14日にコロンボに到着した。

ハーミーズは第814飛行隊のソードフィッシュを乗せ、駆逐艦ヴァンパイアと合流して対潜哨戒にあたるため2月19日に出港。2隻がトリンコマリー港に入港した後、2月25日に飛行隊は降ろされた。3月中旬、フリーマントルに拠点を置いている連合国海軍部隊に合流するため、2隻はそこへ向かうよう命じられた。だが、3日後には呼び戻され東洋艦隊のB部隊に編入された[99]

セイロン沖海戦 編集

極東におけるイギリス最大根拠地シンガポールは、日本軍の快進撃により、1942年(昭和17年)2月15日に陥落した[100]。イギリス東洋艦隊はセイロン島コロンボトリンコマリーに根拠地を変更した[101]。レイトン大将の後任として東洋艦隊司令長官となったジェームズ・サマヴィル大将は、トリンコマリーも安全ではないと考え、モルディブアッドゥ環礁を新母港とすることを検討した[102]。イギリス軍にとって幸運なことに、日本軍はアッドゥ環礁の新基地を知らなかった[103]。同時期には蘭印作戦によりオランダ領東インドが陥落し[104]幾度かの海戦によりABDA艦隊も一掃された[105]。続いてインド洋ベンガル湾南部のアンダマン・ニコバル諸島日本軍に占領されたので[106]アフリカ大陸東岸ケニアモンバサにあるキリンディニ港に逃れ臨時基地とした[107]

しかし第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将が率いる日本軍空母機動部隊がインド洋に進出し[108]、セイロン島攻撃を実施するとの情報を得たイギリス軍は、空母3隻(ハーミーズ、インドミタブルフォーミダブル[109]、歴戦艦ウォースパイトHMS Warspite)など戦艦5隻を含む東洋艦隊を集結させた[110][111][注釈 23]

本艦はアルジャーノン・ウィリス英語版提督が率いる低速艦のB部隊R級戦艦レゾリューションラミリーズロイヤル・サヴリンリヴェンジ)、空母〈ハーミーズ〉、軽巡洋艦〈カレドン、ドラゴン、ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク〉、随伴駆逐艦)に所属していた[101][113]

現実問題として、インド洋に展開しつつあった日本海軍(南方部隊指揮官近藤信竹中将/第二艦隊司令長官)は[114]、正規空母5隻(赤城[注釈 24]蒼龍飛龍瑞鶴翔鶴)と金剛型戦艦4隻を基幹とする南方部隊機動部隊[117][118]第一南遣艦隊(司令長官小沢治三郎中将)の馬來部隊[119][注釈 25]、南方部隊航空部隊[121]と潜水部隊[122]を有しており、イギリス側は圧倒的に不利だった[101]。イギリス東洋艦隊と南雲機動部隊が正面から対決した場合、イギリス側にとって悲惨な結果になることをサマヴィル提督は認識していた[112]

イギリス艦隊は「南雲機動部隊が4月1日ごろセイロン島を攻撃する」という情報を得ていたので、3月31日から4月2日までセイロン島の南で行動していたが[110]、南方部隊機動部隊(通称 南雲機動部隊 )は現れなかった[123][注釈 26]。そのため東洋艦隊の大部分は燃料補給のためにアッドゥ環礁へ向かい[110]、一部が修理や次期作戦のためセイロン島に戻ることになった[126]。重巡2隻(ドーセットシャーコーンウォール)はコロンボに、空母ハーミーズはマダガスカル島攻略準備のため駆逐艦ヴァンパイア (HMAS Vampire, I68) とともにトリンコマリーへ向かった[103][127]

4月4日夕刻、イギリス軍のカタリナ飛行艇が南雲機動部隊を発見したが[128]、零戦に撃墜された[129][注釈 27]。4月5日、コロンボが南雲機動部隊の艦上機による攻撃を受け[131][132]、付近の洋上で前述の英重巡2隻が撃沈された[133][134][注釈 28]

逃げまどうハーミーズと豪駆逐艦ヴァンパイア。
炎上し沈みゆくハーミーズ。
沈むハーミーズ。

4月8日、イギリス軍索敵機が再び日本艦隊(南雲機動部隊)を発見し、各方面に通報した[27]。2隻(ハーミーズ、ヴァンパイア)などはトリンコマリーから洋上に退避し、南へ向かった[136]4月9日朝、南雲機動部隊を発進した攻撃隊(指揮官淵田美津雄少佐)は[137]、トリンコマリーを空襲した[110][138]。日本軍攻撃隊の空襲が終わったので、ハーミーズ部隊はトリンコマリーへ戻るため反転し北上した[139]。しかし、機動部隊の戦艦「榛名」から発進した水上偵察機に発見されていた[139][注釈 29]。索敵機からの報告はイギリス側も傍受し、戦闘機が派遣されたものの間に合わなかった[142]。赤城(機動部隊旗艦)では、ハーミーズが陸上基地にハリケーン戦闘機Hawker Hurricane)の応援を繰り返し求める無電を傍受している[22][143][144]

日本時間午前11時43分、南雲機動部隊から翔鶴飛行隊長高橋赫一少佐が指揮する九九式艦上爆撃機85機、零式艦上戦闘機6機が発進した[145]。艦爆85の内訳は、翔鶴18、瑞鶴14、蒼龍18、飛龍18、赤城17であった[146]源田実航空参謀は護衛機が少ないことを懸念したが、母艦直衛機の問題もあり、やむを得ず護衛の零戦を6機にして出撃させたという[16]。南雲機動部隊にとって幸運なことに、ハーミーズは艦上戦闘機を搭載していなかった[22][147]

13時30分、機動部隊攻撃隊はハーミーズを発見、5分後に急降下爆撃を開始した[145]。ハーミーズを攻撃したのは九九艦爆45機(赤城2、飛龍11、瑞鶴14、翔鶴18)で、爆弾37発命中(命中率82パーセント)を記録した[146]。「ハーミーズ」は「ヴァンパイア」ともに撃沈された[148]。他に付近を行動中だったフラワー級コルベットホリホック (HMS Hollyhock) と補給艦2隻(ブリティッシュ・サージェントAthelstone) 、貨物船Norvikenも撃沈された[13][149]。イギリス側は陸上基地から第273飛行戦隊第803海軍航空隊第806海軍航空隊フェアリー フルマー戦闘機を派遣したがハーミーズの沈没には間に合わず、フルマー2機喪失と引き換えに九九艦爆4機を撃墜したと記録している[注釈 30]。日本側はハーミーズに対する攻撃と沈没の様子を写真撮影しており[10]写真週報などに掲載して宣伝戦に利用している[12][注釈 31]

「ハーミーズ」では艦長以下307名が死亡した[151]。九九艦爆のパイロット(瑞鶴艦爆)は「海上に脱出した生存者もサメの餌食になるだろうと思って銃撃を控えていたら、沈みかけたハーミスの右舷艦尾では高角砲が発砲していた。ユニオンジャックの海兵魂を見せつけられたようで胸が熱くなった。」と回想している[152]。「ハーミーズ」と「ヴァンパイア」の生存者うち、590名は病院船「Vita」に救助された[151]

「ハーミーズ」は第二次世界大戦中、日本海軍に撃沈された唯一のイギリス空母である[153]

残骸の発見 編集

長年にわたるスリランカ内戦のため、ハーミーズの残骸は2002年になってようやくスリランカのダイバーによって発見された[154]。ハーミーズは水深60mの海底に、左舷を下にして横たわっていた。発見後はダイビングスポットとなっており、第二次世界大戦で戦没した空母の中で唯一ダイバーによる潜水が可能な空母でもある[155]

出典 編集

編集

  1. ^ 日英米三海軍國中最近にその工を竣へた新航空母艦は、日本では鳳翔、英國では前陳の如くハーミスで、共に航空機の發達に連れ、特にその母艦たるべく艤装し建造されたものである。米國の最新艦は亦前述の如くラングレーで、是は特に母艦として計畫されたのではなく、後に述ぶる如く給炭船から改造されたものである(以下略)[5]
  2. ^ 航空母艦“ハーミーズ Hermes[8] 全要目{排水量10,850噸 速力25節 備砲13.8糎砲6門 10糎高角砲3門 搭載機數20機 起工1918年1月 竣工1923年7月 建造所アームストロング社} 此艦は英國海軍が航空母艦として計畫した最初のもので英國航空母艦の大體の理想型として結着したものであると考へて差支あるまい。全長182.26米、幅21.33米、平均喫水5.50米、飛行甲板の幅27.43米。寫眞では艦體内部の格納庫を見ることは出來ぬが、10,850噸にして、よく20,000噸母艦に劣らぬ搭載機數を有し艦上構築等もほゞ之が定型となつた。航空母艦も戰闘中の着發艦のためには少からず高速力が要求され機關は他の戰闘艦よりも大きい。
  3. ^ 英航母ハーミス号ベンガル湾深く轟沈す[10] 四月九日、セイロン島ツリンコマリ軍港を急襲しわが海軍航空部隊は、同軍港東南方沖合を南下中の英艦ハーミス並びに驅逐艦一隻を發見、直ちにこれを攻撃し、命中彈を浴びせて撃沈した。寫眞は同攻撃に参加した海鷲によつて攻撃の初期からハーミスがインド洋の海底深く沈没する終焉までの模様を詳細に撮影したものである。/ハーミスは前大戰中の一九一八年戰時緊急造艦計畫に基いて起工され、一九二三年に竣工した基準排水量一万八百五十トン。速力二十五ノット。一四センチ砲六門、一〇.二センチ高角砲三門。搭載機數二〇 撮影 海軍航空部隊 〕
  4. ^ 英の航空母艦トリコマリー沖にて海底に葬り去らる[12] 帝國海軍は四月九日セイロン島トリコマリーの東南に驅逐艦一隻を伴ひ南方に向つて航行中の英國航空母艦ハームスを發見直に爆撃機隊を派遣し直撃彈の連發で之を撃沈した。上圖(1)は直撃彈で母艦に大爆發を生ぜしめ各所に大火災を起さしめてるところ。(2)以下は次頁の如し。(以下略)
  5. ^ 先代はハイフライヤー級防護巡洋艦 (Highflyer class cruiser) のハーミーズ英語版で、1913年に滑走台をもうけて水上機の発艦実験をおこなった[18]。艦の前部に格納庫を増設しており、航空巡洋艦の嚆矢である[19]第一次世界大戦中の1914年(大正3年)10月31日、潜水艦U-27英語版ドイツ語版に撃沈された。
  6. ^ ハーミス撃沈[22](中略)敵英航空母艦ハーミスも、わが攻撃隊の前にはまことにあつ氣ない最期であつた。ハーミスは英海軍省設計の最初の航空母艦であつた。一九一八年起工、排水量一萬八百五十トン、備砲は十四糎六門、十.二糎高角砲三門、四.七糎砲四門、高角機銃十四門で、前後四囘支那方面艦隊に配属され、東洋に深い因縁を持つ空母であつた。/わが、攻撃隊が、近づくと、ハーミスは、「ハリケーン出發せしや、ハリケーン出發せしや」と、生のまゝの電報を陸上基地に向けて打つてゐた。陸上基地が近いため、ハーミスの攻撃機戰闘隊の大半は、陸上基地ツリンコマリ―に行つてゐたのである。/しかし、この朝、ツリンコマリ―の敵空軍基地は、わが攻撃隊のため潰滅せられてゐたのだ。(以下略)
  7. ^ (4月10日、機動部隊戦闘概報第9号)[27]〔 一 八日一八〇〇「ツインコマリ」ノ一〇五度四五〇浬ニ於テ触接セル敵飛行艇ヲ発見追撃セシモ「スコール」ノ為之ヲ逸セリ/(ツインコマリ攻撃略)/三 錫蘭島東方海面捜索中ノ水偵ハ九日一〇五五「ツリンコマリ」ノ一四七度七〇浬(錫蘭島東岸一〇浬以内)ヲ南下中ノ敵航空母艦「ハーメス」及駆逐艦ヲ発見触接 艦爆全力、艦戦九ハ一四〇〇之ヲ攻撃 二隻共撃沈 余剰兵力ヲ以テ附近行動中ノ大型商船三ヲ撃沈ス 水偵ハ別ニ小型商船一撃破 帰投中艦爆隊ハ「スピットファイヤー」九機ト交戦其ノ七機(内 二機不確認)ヲ撃墜セリ 被害蒼龍艦爆四機「スピットファイヤー」トノ空戦ニ依リ自爆/四 九日一〇一六触接中ノ敵飛行艇一機撃墜 一三五〇的「プレネム」型九機来襲 空戦ニ依リ其ノ七機ヲ撃墜(五機ハ上空直衛機、二機ハ帰投中ノ「ハーメス」攻撃隊ニ依ル)赤城、利根爆撃ヲ受ケシモ被害ナシ(以下略)
  8. ^ 就役当初のフューリアスは、前部のみ飛行甲板をもうけ、後部に18インチ砲1門を搭載した[35]。後日、後部主砲を撤去して飛行甲板を設けた[36]
  9. ^ チリ海軍むけにイギリスで建造中だった戦艦アルミランテ・コクレン (Almirante Cochrane) をイギリス海軍が買収し、空母に改造したのである[41][42]
  10. ^ 航空母艦“イーグル Eagle[44] 全要目{排水量22,600噸 速力24節 備砲15糎砲9門 10糎高角砲5門 搭載機數21機 計畫年度は1913年で1918年進水しその後幾度か改装され、1923年竣工した} 全長202.37米、幅32.05米、但し飛行甲板は30.48米、平均喫水7.31米。軸馬力は50,000馬力。搭載機數21の内譯は戰闘機1個中隊(オスプレイ9機)觀測偵察機1個中隊(フエアリーⅢF12機)となつてゐる。この型は所謂アイランド型に属するもの艦橋(ブリツヂ)等は飛行甲板の右舷に偏在してゐる。イーグルも途中で航空母艦にかへられたものであるが、全く一枚の飛行甲板になつた。このやうに20,000噸以上の大型航空母艦を4隻も持つてゐる英國は世界最大の航空母艦國であるといつてよい。
  11. ^ 航空母艦“ハーミーズ Hermes[49] 全要目{排水量10,850噸 速力25節 備砲13.8糎砲6門 10糎高角砲3門 搭載機數20機 起工1918年1月 竣工1923年5月 建造所不詳} 此艦は英國海軍が航空母艦として計畫した最初のものである。全長182.26米、幅21.33米、平均喫水5.50米、飛行甲板の幅27.43米。上記の兵装の外に小砲計26門を有す。
    航空母艦“カレツヂアス Courageous 全要目{排水量22,500噸 速力30.5節 備砲13.8糎砲10門 10糎高角砲6門 巡洋戰艦より改造せるもの 搭載機數36機 起工1915年5月 竣工1917年1月 建造所アームストロング會社} 尚英國には以上の外に“アルガス Argus”14,450噸、20.2節。及び“グロリアス Glorious”22,500噸、30.5節の2隻の航空母艦がありこの艦種に於ては列強中特に整備充實されてゐる。
  12. ^ a b c 大正九年十月八日 英國駐在海軍造船少佐藤本喜久雄 仝海軍造船大尉福田啓二 英國飛行機母艦「ハルメス ハーミーズ」ニ就テ[50] 本艦ハ大正七年正月「ニューカッスル」「アームストロング」会社ニ於テ起工サレ大正八年九月十一日進水、艤装中ノ処 各海軍工廠ニ於ケル職工ノ解雇意ノ如クナラズ止ムヲ得ズ民間造船所ニテ工事中ノ艦艇ヲ出来得ル限リ工廠ノ手ニ移ス事トナリ大正九年春本艦ハ「デボンポート」工廠ヘ曳船サレ同工廠ニテ工事引キツギ艤装シツヽアリ。/ 本年九月下旬ニ於ケル工事ノ現状ハ船殻工事ハ飛行甲板殆ンド完成シ機汽関ハ搭載ズミナレド内部及上部艤装ハ未完成ニシテ竣工迄ニハ少ナクトモ尚一ヶ年ヲ要スベシト見受ケラル。/本艦ハ大体「イーグル」ト同型ニシテ(噸数ハ小ナリシモ)「アルガス」「アーガス」ト異ナリ煙突・艦橋等ハ固定トシテ右舷側ニ片寄セ中央及左舷ニワタリ廣キ飛行甲板ヲ形成セルモノナリ。小官等今夏同海軍工廠ニテ實習中其ノ艤装圖ヲルヲ得タレバ其ノ大体ヲ次ニ報告ス。
  13. ^ ハーミーズは、1918年(大正7年)1月15日に起工、1919年(大正8年)9月11日に進水、1924年(大正13年)2月18日に竣工。鳳翔は1919年(大正8年)12月16日起工、1921年(大正10年)11月13日進水、1922年(大正11年)12月27日就役[53]。初着艦は1923年(大正12年)2月22日であった[54][55]
  14. ^ ハ、海の突撃兵團“航空母艦”[58](中略)かくして第一次歐洲大戰以後、航空母艦が研究され出したわけであるが、世界で最初にこの母艦を設計したのは、イギリスでも、アメリカでも、ドイツでもなく、實にわが日本であつた。大正十一年に竣工した『鳳翔』がそれである。鳳翔が竣工する一寸前に、イギリスでは巡洋艦を商船を改造して『フューリアス』と『アーガス』二隻の航空母艦を造つたが、航空母艦として初めから設計され、建造されたものは世界中で『鳳翔』が嚆矢である。
  15. ^ 英國航空母艦ハーミス[60] 英國航空母艦ハーミスはその前代の航空母艦アーガスに於て試みたる横煙突の失敗に鑑み ― その故は煙突を横置きにして煤煙を後方に噴出せしむるときは、高速力を以て航走するとき發煙夥しく、爲に氣流を害することが甚だしくて、飛行機の達着困難なる上に、煙突を横にした爲、豫定の速力を出すことができなかつたからである ― 、その煙突は之を直立としたが、而かも之を一舷に偏せしめて、艦橋の直後に置いたのである。此の艦は前にも述ぶる如く特に航空母艦として建造されたものゝ嚆矢で、その外觀は附図に示すが如くであるが、昨年竣工の上プリマス港外に於て諸種の公試を行ひ、凡て之を完了したといふことである。今その要目を擧げると、 全長 五九四呎六吋/最大幅 七〇呎〇吋/吃水 一八呎九吋/排水量一〇,九五〇噸/軸馬力四〇,〇〇〇/速力二五節/兵装 十五糎砲七門 十糎高角砲四門/進水 大正九年 
  16. ^ 航空母艦“鳳翔 ほうしやう”[66] 全要目{排水量7,470噸 速力25.0節 備砲14糎砲4門 8糎高角砲2門 起工大正8年12月 竣工大正11年12月 建造所淺野造船所} 鳳翔は大正11年12月に竣工した我海軍最初の航空母艦であり而も最初より航母として計畫されたものである。航空母艦は由來その型式に於て二種に分つことが出來る。即ち我が海軍の赤城加賀鳳翔龍驤の如く飛行甲板上に何一つ邪魔物のないフラッシュデッキ型と、米國の“サラトガ”“レキシントン”英國の“ハームス”等の如くマストや大砲、煙突等を何れか一舷側に集めたアイランド型である。各々長短があるのであるが飛行機の發着にはフラッシデッキ型の方が便利とされてゐる。更にこれを我が海軍の4隻に就いて見ると赤城、加賀の2艦は三段式で龍驤は二段式になつてゐるのに獨り鳳翔は前後一枚の飛行甲板を以つて覆はれてゐるが、艦の操縦は他の3隻の方が便利であると云はれてゐる。
  17. ^ 同世代の軽空母鳳翔も建造当初は島型艦橋を備えていたが[57]、改装時に撤去してフラッシュデッキ型になった[66]
  18. ^ 第三節 航空母艦/(一)總説[72] 航空母艦は主力艦と共に海軍條約により制限を設けられたものゝ一に屬する。即ち英米は各總計制限噸數一三五,〇〇〇噸、日本八一,〇〇〇噸、佛伊各六〇,〇〇〇噸で、各艦二七,〇〇〇噸を超過するを得ず、但し二隻に限り三三,〇〇〇噸艦を建造するを得、又二十糎砲以上を装備するを得ず、其の砲數は十五糎砲以下なれば十門、二十糎以下十五糎より大なる砲は六門を以て最大限度とする。
    各國は右總計制限噸數内で適宜その航空母艦を建造するのであるが、元來航空母艦とは果して如何なるものかといふに、條約規定の定義には 特に専ら航空機を搭載するの目的を以て設計したもので、基準排水量一萬噸を超え、艦上に於て航空機の發箸を爲し得べき構造を有するもの とあつて、飛行機でも航空船でも、特にその甲板より自由に發着を爲し得る構造を有するものを指して云ふのである されど之には左の除外例がある。(1)假令その専門の構造を有するも、一萬噸以内の艦は制限範囲内の隻數に入らざること。(2)大正十年十一月十二日に於て現存又は建造中なる各國の航空母艦は、假令一萬噸以上にして且つ専門の構造を有するものも、一時試験的のものと看做し、制限噸數の範圍内に於て、艦齢に拘らず代艦の建造を許すこと。英國の既成艦フユーリヤス(一九,一〇〇噸)、アーガス(一四,四五〇噸)、イーグル(二二,七九〇噸)と新成艦ハーミス(一〇,九五〇噸)の四隻全部は亦試驗的のものとして代艦の建造を許すから、之を其の儘として置くも尚六七,七一〇噸の餘裕がある。佛國は建造中止中の弩級艦ベァルンを改造して、差當り航空母艦に充つることにしてゐる。伊國に就ては不明である。
  19. ^ 同様の対潜哨戒任務についていた空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) は9月14日U-39英語版ドイツ語版に襲撃され、敵Uボートを返り討ちにしたものの、危うく魚雷が命中するところだった[74]
  20. ^ 同様の対潜哨戒任務に就いていた空母カレイジャス (HMS Courageous, 50) は、9月17日ドイツ海軍潜水艦U-29英語版ドイツ語版の魚雷攻撃で沈没した[75]
  21. ^ 東洋艦隊司令長官トーマス・フィリップス提督も戦死した[97]
  22. ^ フィリップス提督が戦死したので、前任のジェフリー・レイトン英語版大将が司令長官に返り咲いた[98]
  23. ^ サマヴィル提督は3月27日にセイロン島トリンコマリー港でウォースパイトに将旗を掲げた[112]
  24. ^ 第一航空戦隊の空母加賀は2月にパラオコロール島で座礁して損傷しており[115]、修理のため内地帰投、インド作戦不参加[116]
  25. ^ 重巡鳥海(小沢中将旗艦)、軽空母龍驤、軽巡由良、第七戦隊の最上型重巡洋艦4隻、第三水雷戦隊[120]
  26. ^ 南雲機動部隊は3月26日にスラウェシ島スターリング湾を出撃し、インド洋にむかっていた[124][125]
  27. ^ バーチャル機長など生存者6名が、駆逐艦磯風に救助された[130]
  28. ^ 一七、インド洋の戰果 四月五日より九日にわたりインド洋コロンボで英甲巡二を撃沈、ツリンコマリ沖で英空母ハーミス、乙巡二、駆逐艦一、哨戒艇一を撃沈、乙巡一を大破[135]
  29. ^ (榛名索敵機報告)〔 敵空母「ハーメス」 駆逐艦三隻見ユ 我出発点ヨリノ方位二五〇度一五五浬 一〇五五 〕〔 敵巡洋艦一駆逐艦二出発点ヨリノ方位二七〇度一五五浬 針路一八〇度速力一二節 〕[140][141]
  30. ^ 日本側記録ではスピットファイア9機と交戦して7機撃墜(2機不確実)、空戦で零戦1と蒼龍隊の九九艦爆4を失った[145]
  31. ^ 英空母ハーミス撃沈の瞬間[150] 四月五日から雄渾な作戰を印度洋にひろげた海軍機動部隊は、九日朝あさに戰爆の鵬翼をつらねてイギリスが印度防衛の最大據点と恃むセイロン島ツリンコマリ軍港を急襲した。(中略)つゞいて午後三時すぎ、わが偵察機は、折柄のスコールに紛れてさまよひ出た英空母ハーミス(一〇,八五〇トン)が驅逐艦一隻を随伴してゆくのを沖合十マイルに發見した。わが第一回の爆撃で『もうおしまい』と勘違ひしたのであらう。自らの墓穴を掘りに現はれてたのである。/海鷲は時を移さず先廻り、低く垂れこめた雨雲を衝いて、神技の如き早業でハーミスすれ〱に喰ひかゝれば、敵は自慢のポムポム砲で彈幕を張るいとまもない。一彈、二彈、必中の巨彈はハーミスの飛行甲板をぶち抜き、艦内に大爆發をおこして艦首から沈みはじめた。猛攻十分、やがて巨體は左舷に轉覆、最後の大爆發とともに印度洋上に消えた。いつもながらに鮮やかすぎる海鷲の神技であつた。

脚注 編集

  1. ^ 本邦駐箚大公使館附武官英国往復文書 昭和4年(防衛省防衛研究所)昭和4年10月8日「ハーミス」見学の件」 アジア歴史資料センター Ref.C11080481800 
  2. ^ #写真週報219号 p.4(沈没しつつあるハーミス写真)〔 英航空母艦ハーミスはわが海鷲の命中彈を受けて大火災を起しベンガル灣深く正に、沈没せんとしてゐる 〕
  3. ^ 中島、航空母艦 1930, pp. 27–28原本44-46頁(日米英仏伊空母要目表)
  4. ^ 福井、世界空母物語 2008, p. 65a◇ハーミーズ(Hermes)
  5. ^ 海軍参考年鑑、大正13年版 1924, pp. 30–31原本26-27頁(列國の代表的航空母艦)
  6. ^ 福井、世界空母物語 2008, p. 4(ハーミーズ写真および解説)
  7. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 112a-113精密カラー・メカニック 艦艇・航空機大図鑑(文・長谷川均/イラスト・大沢郁甫/作図・石橋孝夫)〔 英空母「ハーミズ」〕
  8. ^ a b ポケット海軍年鑑 1937, p. 79原本140-141頁(航空母艦 ハーミーズ)
  9. ^ 中島、航空母艦 1930, pp. 7–8原本5頁(第二圖 英國航空母艦イーグル)、原本6頁(第三圖 英國航空母艦ハーミス)
  10. ^ a b #写真週報219号 p.5(ハーミスへの攻撃と沈没の連続写真)
  11. ^ 軍艦写真、海軍協会 1927, pp. 69–70〔英國〕航空母艦ハームス
  12. ^ a b 大東亜戦争記録画報(前) 1943, p. 80原本152-153頁(ハームス沈没写真)
  13. ^ a b 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 10–11(昭和17年4月9日)英空母ハーミズの最期
  14. ^ a b c グレンフェル 2008, p. 81.
  15. ^ a b 潜水艦戦争 1973, pp. 122a-126ダカール事件 1940年9月23日~25日
  16. ^ a b 海軍航空隊始末記 1996, pp. 108–114空母ハーメスを屠る
  17. ^ 戦史叢書26 1969, p. 652a英空母ハーメス撃沈
  18. ^ 福井、世界空母物語 2008, p. 50.
  19. ^ a b 福井、世界巡洋艦物語 1994, p. 105.
  20. ^ a b 福井、世界空母物語 2008, pp. 239–240史上初の空母を生んだ大英帝国
  21. ^ a b c d 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 112b-113(英空母ハーミズ)
  22. ^ a b c 海軍航空戦記(1) 1944, pp. 110–112原本199-202頁(ハーミス撃沈)
  23. ^ a b c 福井、世界空母物語 2008, p. 65b.
  24. ^ 朝日、展望(2) 1942, pp. 39–40原本67-69頁(セイロン島その他を猛攻撃)
  25. ^ グレンフェル 2008, p. 146.
  26. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, p. 39(ハーミズ写真解説)
  27. ^ a b 戦史叢書26 1969, pp. 650–655ツリンコマリ空襲、小空母一隻撃沈
  28. ^ 海軍航空史話 1944, pp. 83–84原本136-138頁
  29. ^ 福井、世界空母物語 2008, pp. 254–257英海軍が開拓した二方式
  30. ^ 福井、世界巡洋艦物語 1994, pp. 104–107(2)巡洋艦式の水上機母艦と航空巡洋艦
  31. ^ 福井、世界巡洋艦物語 1994, pp. 107a-108(3)陸上機を搭載した巡洋艦
  32. ^ 福井、世界空母物語 2008, pp. 57–60◇フューリアス(Furius)
  33. ^ 福井、世界空母物語 2008, p. 60a◇ヴィンディクティヴ(Vindictive)
  34. ^ a b 福井、世界巡洋艦物語 1994, pp. 107b-108.
  35. ^ 世界の戦艦、弩級戦艦編 1999, p. 107aフューリアス 搭載された当時最大の四十五.七センチ砲
  36. ^ 福井、世界巡洋艦物語 1994, p. 163.
  37. ^ 福井、世界空母物語 2008, p. 3(フューリアス写真および解説)
  38. ^ 福井、世界空母物語 2008, pp. 60b-62◇アーガス(Argus)
  39. ^ 大内、幻の航空母艦 2006, p. 307.
  40. ^ 福井、世界空母物語 2008, p. 2a(アーガス写真および解説)
  41. ^ 大内、幻の航空母艦 2006, pp. 322–328イーグル(EAGLE)
  42. ^ 福井、世界戦艦物語 2009, p. 107.
  43. ^ 福井、世界空母物語 2008, pp. 62–64◇イーグル(Eagle)
  44. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 78原本138-139頁(航空母艦イーグル)
  45. ^ 福井、世界空母物語 2008, p. 2b(イーグル写真および解説)
  46. ^ a b 福井、世界空母物語 2008, pp. 259–261英海軍の"大いなる遺産"
  47. ^ 福井、世界戦艦物語 2009, pp. 276–277.
  48. ^ a b 福井、世界空母物語 2008, p. 257.
  49. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 93原本168-169頁(航空母艦 ハーミーズ)
  50. ^ #大正9.1月、任務遂行 p.2
  51. ^ #大正9.1月、任務遂行 p.1
  52. ^ 大内、幻の航空母艦 2006, p. 308.
  53. ^ 昭和15年12月25日現在10版 内令提要追録第8号原稿(防衛省防衛研究所)巻1/第6類 機密保護」 アジア歴史資料センター Ref.C13071993000 p.2〔 鳳翔|航空母艦|155.45|14.67|4.57|7,470|25.0|8|淺野造船所|大正8-12-16|大正10-11-13|大正11-12-27|14c/m…4 8c/m…2|―|4|「タルビン」2|艦本式8|2|30,000 〕
  54. ^ 大内、幻の航空母艦 2006, p. 316.
  55. ^ 海軍航空史話 1944, pp. 147–148原本264-266頁(航空母艦)
  56. ^ 福井、世界空母物語 2008, p. 1(鳳翔写真および解説)
  57. ^ a b 福井、世界空母物語 2008, pp. 90–92航空母艦鳳翔
  58. ^ 海戦の変貌 1943, pp. 102–103原本166-168頁(皇國海軍は航空母艦生みの親)
  59. ^ 福井、世界空母物語 2008, p. 64.
  60. ^ 海軍参考年鑑、大正13年版 1924, pp. 32–33原本29-31頁(ハーミス)
  61. ^ 大内、赤城・加賀 2014, pp. 34–35第7図 航空母艦ハーミーズ
  62. ^ イギリス航空母艦史(海人社), p. 40
  63. ^ 大内、赤城・加賀 2014, pp. 32–33第6図 航空母艦アーガス(イタリア客船コンテ・ロッソ改造)
  64. ^ 大内、赤城・加賀 2014, pp. 50–51第10図 航空母艦ラングレー(給炭艦ジュピター改造)
  65. ^ 大内、幻の航空母艦 2006, p. 323.
  66. ^ a b ポケット海軍年鑑 1935, p. 43原本68-69頁(航空母艦 鳳翔)
  67. ^ 福井、世界空母物語 2008, p. 63第2図 英空母艦型比較アーガス/イーグル/ハーミーズ
  68. ^ a b c イギリス航空母艦史(海人社), p. 42
  69. ^ #大正9.1月、任務遂行 p.13(ハーミーズ側面図)
  70. ^ イギリス航空母艦史(海人社), p. 161~162
  71. ^ 福井、世界空母物語 2008, pp. 241–245空母王国を誇った英海軍
  72. ^ 海軍参考年鑑、大正13年版 1924, pp. 29–30原本25-26頁
  73. ^ 大内、幻の航空母艦 2006, pp. 33–34イギリス
  74. ^ 潜水艦戦争 1973, p. 60空母アーク・ロイヤルへの攻撃 1939年9月14日
  75. ^ 潜水艦戦争 1973, pp. 61–62カレージアスへの魚雷攻撃 1939年9月17日
  76. ^ 潜水艦戦争 1973, p. 62.
  77. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, pp. 130–132装甲艦の戦術的価値
  78. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, pp. 33–40(2)ポケット戦艦
  79. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, pp. 41–48(3)アドミラル・グラーフ・シュペー出撃
  80. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 65第6図 シュペーの航跡図
  81. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 73.
  82. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 75a第5表 1939年10月5日現在の掃討部隊編成
  83. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 75b.
  84. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 79第6表 1939年11月23日における掃討部隊配置
  85. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 80第8図 1939年11月23日における英掃討部隊配備図
  86. ^ a b 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 82.
  87. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 83.
  88. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 118第16図 1939年12月13日における英掃討部隊配備図
  89. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 1261939年12月17日、ラプラタ河口で劇的な自沈をとげるアドミラル・グラーフ・シュペー
  90. ^ McCart, pp. 39–40
  91. ^ a b c d 潜水艦戦争 1973, p. 122b.
  92. ^ McCart, pp. 41, 43–44
  93. ^ McCart, pp. 44–45
  94. ^ Rohwer, p. 59
  95. ^ グレンフェル 2008, pp. 89–92.
  96. ^ グレンフェル 2008, pp. 108-109、115-116.
  97. ^ 南方圏要覧 1942, pp. 204–205原本389-390頁(八、マレー沖海戰)
  98. ^ グレンフェル 2008, p. 116.
  99. ^ McCart, pp. 46–48
  100. ^ 南方圏要覧 1942, pp. 205–206原本390-392頁(九、マレー攻略戰)
  101. ^ a b c 戦史叢書26 1969, p. 673.
  102. ^ グレンフェル 2008, p. 138.
  103. ^ a b 戦史叢書26 1969, p. 674.
  104. ^ グレンフェル 2008, p. 134.
  105. ^ 南方圏要覧 1942, pp. 206–207原本392-394頁(一〇、英領ボルネオの戡定作戰完了/一一、全蘭印の戡定成る(略)一三、ビルマを制壓(略)一五、ジャワ冲海戰/一六、スラバヤ、バタビア沖海戰)
  106. ^ 大東亜戦争記録画報(前) 1943, p. 79原本151頁(アンダマン島攻略の意義重大)
  107. ^ 戦史叢書26 1969, p. 676.
  108. ^ 海軍航空隊始末記 1996, p. 74セイロン作戦の背景
  109. ^ グレンフェル 2008, p. 141.
  110. ^ a b c d ニミッツ 1962, p. 45.
  111. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 44–45艦隊を温存せよ
  112. ^ a b ウォースパイト 1998, pp. 206–207東洋艦隊
  113. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 43–44ソマヴィルの「紙上艦隊」
  114. ^ 戦史叢書26 1969, pp. 626–627南方部隊
  115. ^ 草鹿 1979, pp. 97–98.
  116. ^ 草鹿 1979, pp. 102–103長駆、三〇〇〇浬の大作戦
  117. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 29–30インド洋作戦の発動
  118. ^ 戦史叢書26 1969, pp. 627–634南方部隊機動部隊
  119. ^ 海軍航空隊始末記 1996, pp. 80–81(別表一、印度洋作戦兵力部署)
  120. ^ 戦史叢書26 1969, pp. 636–638馬來部隊
  121. ^ 戦史叢書26 1969, pp. 634–635南方部隊航空部隊
  122. ^ 戦史叢書26 1969, p. 638潜水部隊
  123. ^ Royal Australian Navy, 1942–1945, pp.15-16
  124. ^ 翔鶴海戦記 1962, pp. 56–59インド洋セイロン島攻撃戦
  125. ^ 戦史叢書26 1969, pp. 641–643南方部隊機動部隊の進攻
  126. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, p. 45インド洋海戦の始まり
  127. ^ Royal Australian Navy, 1942–1945, p.16
  128. ^ 草鹿 1979, p. 104.
  129. ^ 翔鶴海戦記 1962, p. 58.
  130. ^ 井上、磯風特年兵 2011, p. 27.
  131. ^ 海軍航空隊始末記 1996, pp. 87–93コロンボ空襲と指宿大尉
  132. ^ 草鹿 1979, p. 105(南雲機動部隊)第二次インド洋作戦図
  133. ^ 海軍航空隊始末記 1996, pp. 93–101敵大巡二隻を攻撃/江草少佐、未曽有の戦果
  134. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 8–9(昭和17年4月5日)20分間で英重巡2隻撃沈
  135. ^ 南方圏要覧 1942, p. 207原本394頁(一七、インド洋の戰果)
  136. ^ 戦史叢書26 1969, p. 675.
  137. ^ 淵田自叙伝 2010, pp. 202–206ツリンコマリ空襲
  138. ^ 海軍航空隊始末記 1996, pp. 102–107ツリンコマリ空襲
  139. ^ a b Royal Australian Navy, 1942–1945, p.20
  140. ^ 戦史叢書26 1969, p. 652b.
  141. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, p. 38a「敵空母ハーミズ見ユ」
  142. ^ Royal Australian Navy, 1942–1945, pp.20-21
  143. ^ 淵田自叙伝 2010, p. 204.
  144. ^ 草鹿 1979, pp. 108–110空母ハミーズの最期
  145. ^ a b c 戦史叢書26 1969, p. 653.
  146. ^ a b 戦史叢書26 1969, p. 654.
  147. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 140–141(沈没するハーミズ写真解説より)
  148. ^ Royal Australian Navy, 1942–1945, p.21
  149. ^ 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 38c-39インド洋に凱歌が上がる
  150. ^ 大東亜戦争報道写真録 1942, pp. 35–36原本30-31頁(英空母ハーミス撃沈の瞬間)
  151. ^ a b Royal Australian Navy, 1942–1945, p.21
  152. ^ 母艦航空隊 2013, pp. 136–138大あばれ緒戦時の艦爆隊
  153. ^ 福井、世界空母物語 2008, p. 284第19表 英空母の損傷
  154. ^ HMS HERMES REDISCOVERY, srilanka-divingtours.com
  155. ^ HMS Hermes Wreck, xray-mag.com

参考文献 編集

ハーミズのダミーシップ
1928年の日本海軍による親善訪問の写真。陸奥 (戦艦)天龍 (軽巡洋艦)、ハーミズ、扶桑 (戦艦)が確認できる。
  • 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵 波濤の中の青春』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年10月。ISBN 978-4-7698-2709-2 
  • 生出寿『烈将山口多聞』徳間書店〈徳間文庫〉、1989年8月(原著1986年)。ISBN 4-19-598853-5 
  • 大内健二「第6章 忘れられた航空母艦/鳳翔/イーグル」『幻の航空母艦 主力母艦の陰に隠れた異色の艦艇』光人社〈光人社NF文庫〉、2006年12月。ISBN 4-7698-2514-5 
  • 大内健二『航空母艦「赤城」「加賀」 大艦巨砲からの変身』光人社〈光人社NF文庫〉、2014年2月。ISBN 978-4-7698-2818-1 
  • 草鹿龍之介「第二部 南西方面からインド洋へ/第二章 英艦隊掃蕩の命くだる」『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1979年1月。ISBN 4-87538-039-9 
  • ラッセル・グレンフェル「第七章 東洋艦隊到着と日本軍のマレー侵入/第十二章 印度洋上の作戦」『プリンス オブ ウエルスの最期 主力艦隊シンガポールへ 日本勝利の記録』田中啓眞 訳、錦正社、2008年8月(原著1953年)。ISBN 978-4-7646-0326-4 
  • 源田實「印度洋を席巻する二カ月」『海軍航空隊始末記』文藝春秋〈文春文庫〉、1996年12月(原著1962年)。ISBN 4-16-731003-1 
  • 世界の艦船増刊第71集 イギリス航空母艦史(海人社)
  • 世界の艦船増刊第80集 航空母艦全史(海人社)
  • 酒井三千生『ラプラタ沖海戦』株式会社出版協同社、1985年1月。ISBN 4-87970-040-1 
  • 太平洋戦争研究会、岡田幸和、瀬名堯彦、谷井建三(イラストレーション)『ビッグマンスペシャル 世界の戦艦 〔 弩級戦艦編 〕 BATTLESHIPS OF DREADNOUGHTS AGE世界文化社、1999年3月。ISBN 4-418-99101-8 
  • 高橋定ほか『母艦航空隊 体験で綴る空母機動部隊の一挙一動と海空戦の真相!』潮書房光人社、2013年1月。ISBN 978-4-7698-1538-9 
    • (134-145頁)当時「瑞鶴」艦爆隊操縦員・海軍少尉堀健二『瑞鶴艦爆隊が演じた勝利の海戦劇 ハワイ真珠湾から南太平洋海戦まで機動部隊の栄光の時
  • V.E.タラント、井原祐司 訳「第10章 ― 「オールド・レディ」」『戦艦ウォースパイト 第二次大戦で最も活躍した戦艦』光人社、1998年11月。ISBN 4-906631-38-X 
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾(共訳)、恒文社、1962年12月。 
  • 淵田美津雄『真珠湾総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝中田整一編・解説、講談社〈講談社文庫〉、2010年11月(原著2007年)。ISBN 978-4-06-276805-4 
  • 福井静夫 著「世界軽巡洋艦の話」、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想 第八巻 世界巡洋艦物語』光人社、1994年6月。ISBN 4-7698-0656-6 
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『新装版 福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第三巻 世界空母物語』光人社、2008年8月。ISBN 978-4-7698-1393-4 
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『新装版 福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第六巻 世界戦艦物語』光人社、2009年3月。ISBN 978-4-7698-1426-9 
  • 福地周夫『空母翔鶴海戦記』出版共同社、1962年6月。 
  • レオンス・ペイヤール 著、長塚隆二 訳「6.大西洋における戦闘」『潜水艦戦争 1939-1945』早川書房、1973年12月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦 [1]』 第26巻、朝雲新聞社、1969年5月。 
  • 歴史群像編集部編『勇躍インド洋作戦 南方資源地帯確保へさらなる進攻と南雲機動部隊の西進作戦を徹底分析』 第3巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1994年6月。 
  • BRITISH AND EMPIRE WARSHIPS OF THE SECOND WORLD WAR(Naval Institute Press)
  • McCart, Neil (2001). HMS Hermes 1923 & 1959. Cheltenham, UK: Fan Publications. ISBN 1-901225-05-4 
  • Rohwer, Jürgen (2005). Chronology of the War at Sea 1939-1945: The Naval History of World War Two (Third Revised ed.). Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 1-59114-119-2 
  • Hermon Gill, Second World War Official Histories - Australia in the War of 1939–1945. Series 2 – Navy: Volume II – Royal Australian Navy, 1942–1945, 1968
  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 『昭和17年5月6日、写真週報219号』。Ref.A06031081400。 
    • 『航空母艦・補助鑑/軍備制限問題第六巻(外他_149)(外務省外交史料館)』。Ref.B10070139800。 
    • 『公文備考 雑件4巻127(防衛省防衛研究所)/英軍艦東洋派遣に関する件』。Ref.C04015467600。 
    • 『第3338号 8.9.9英国軍艦「カンバ-ランド」及「ハ-ミス」本邦来航に関する回答』。Ref.C05022738000。 
    • 『崎監機密第5号の50 11.5.31英国軍艦、駆逐艦寄港に関する件(1)』。Ref.C05035195800。 
    • 『昭和17年1月1日~昭和17年9月30日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第3戦隊(3)』。Ref.C08030041200。 
    • 『昭和17年1月1日~昭和17年9月30日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第3戦隊(4)』。Ref.C08030041300。 
    • 『9年1月1日 任務遂行及び予定報告の件/大正6年 外国駐在員報告 巻7(防衛省防衛研究所)』。Ref.C10100831800。 
    • 『大正6年 外国駐在員報告 巻7(防衛省防衛研究所)/9年10月8日 英国飛行機母艦「ハーミーズ」に就いて』。Ref.C10100835300。 
    • 『昭和4年7月22日 「ケント」「ハーミス」及「コンウォール」来航に関する件』。Ref.C11080480200。 
    • 『昭和4年9月16日 「ハーミス」「コンウォール」「ケント」寄港予定変更の件』。Ref.C11080481300。 
    • 『第2746号 昭和10年6月25日 英国支那艦隊本邦寄港に関する件回答』。Ref.C11080572500。 

関連項目 編集

外部リンク 編集