第10代ハミルトン公爵 アレグザンダー・ハミルトン Alexander Hamilton 10th Duke of Hamilton | |
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リチャード・マドックス画 | |
生年月日 | 1767年10月3日 |
出生地 | グレートブリテン王国・イングランド・ロンドン・セント・ジェイムズ広場(英語版) |
没年月日 | (1852-08-18) 1852年8月18日(84歳没) |
死没地 | イギリス・スコットランド・ハミルトン(英語版)・ハミルトン宮殿(英語版) |
出身校 | オックスフォード大学クライスト・チャーチ |
称号 | 第10代ハミルトン公爵、ガーター勲章ナイト(KG)、枢密顧問官(PC) |
庶民院議員 | |
選挙区 | ランカスター選挙区(英語版) |
在任期間 | 1802年7月14日 - 1806年11月1日 |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1806年11月4日 - 1852年8月18日 |
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第10代ハミルトン公爵アレグザンダー・ハミルトン(英語: Alexander Hamilton, 10th Duke of Hamilton, KG, PC, FRS, FSA、1767年10月3日-1852年8月18日)は、イギリスの貴族、政治家。
1767年10月3日、第9代ハミルトン公爵アーチボルド・ハミルトンとその妻ハリエット(第6代ギャロウェイ伯爵アレグザンダー・ステュワートの娘)の間の長男としてロンドン・セント・ジェイムズ広場(英語版)に生まれる[1][2]。
ハーロー校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学。1789年にマスター・オブ・アーツ(英語版)の学位を取得[2]。
1802年7月から1806年11月にかけてランカスター選挙区(英語版)から選出されて庶民院議員を務めた[3]。1806年11月4日には繰上勅書によりいまだ父が存命ながら第7代ダットン男爵を継承し、貴族院議員に列した[4]。
1806年から1807年にかけて駐ロシア大使(英語版)を務めた[2]。1806年6月に枢密顧問官に列する[2]。
1819年2月16日に父が死去し。第10代ハミルトン公爵位を継承した[2]。
1820年から1822年にかけてフリーメイソンのスコットランド・グランドロッジ(英語版)のグランドマスターを務める[2]。
1834年から死去まで大英博物館の管理人を務めた[2]。1836年2月にガーター勲章を受けた[2]。
1852年9月4日にスコットランド・ハミルトン(英語版)のハミルトン宮殿(英語版)で死去。
1806年11月4日の繰上勅書により父アーチボルドから以下の爵位を継承した[4]。
1819年2月16日の父の死去により以下の爵位を継承した[2]。
1810年にウィリアム・トマス・ベックフォードの娘スーザンと結婚し、彼女との間に以下の2子を儲けた[2]。
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
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先代 ジョン・ディント(英語版) リチャード・ペン(英語版) | ランカスター選挙区(英語版) 選出庶民院議員 1802年 – 1806年 同職:ジョン・ディント(英語版) | 次代 ジョン・ディント(英語版) ジョン・フェントン=カウソーン(英語版) |
名誉職 | ||
先代 第9代ハミルトン公爵 | ラナークシャー知事(英語版) 1802年 – 1852年 | 次代 第11代ハミルトン公爵 |
外交職 | ||
先代 第10代カスカート卿(英語版) | 駐ロシア大使(英語版) 1807年 | 次代 グランヴィル・ルーソン=ゴア卿 |
フリーメイソン | ||
先代 皇太子ジョージ (ジョージ4世) | スコットランド・グランドロッジ グランドマスター(英語版) 1820年 – 1822年 | 次代 第6代アーガイル公爵 |
スコットランドの爵位 | ||
先代 アーチボルド・ハミルトン | 第10代ハミルトン公爵 1819年 – 1852年 | 次代 ウィリアム・ハミルトン |
グレートブリテンの爵位 | ||
先代 アーチボルド・ハミルトン | 第7代ダットン男爵 (繰上勅書により父生存中に爵位継承) 1806年 – 1852年 | 次代 ウィリアム・ハミルトン |